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名古屋城のすべてが明らかになるスゴイ辞典「金城温古録」とは

2017.09.13

名古屋城といえば、、徳川家康が1609年(慶長14年)に、九男・義直の尾張藩の居城として名古屋城を築くことにし、翌年から西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始したと言われています。

昭和5年には建物24棟が、昭和17年には本丸御殿障壁画が国宝認定されていていて、お城の国宝第1号だった名古屋城。
その名古屋城の記録を江戸後期にまとめた『金城温古録(きんじょうおんころく)』というのをご存知でしょうか。

これは尾張藩士・奥村得義とその養子・定が編集した名古屋城の百科事典です。当時の城の情報は極秘中の極秘情報。
そんな機密情報の調査、記録を10年に渡り、さらに養子にまでそれを引き継いだというものです。
この「金城温古録」があったからこそ、当時の名古屋城を事細かに知ることができるという、後世の我々にとってありがたい辞典。

「金城温古録」の編纂にあたり、数百冊を超える資料や書物を筆写して収集しますが、中には尾張藩にとって極秘情報もあるのでそれをまとめて「国秘録」と名付けています。その書物は現在3冊あり、所蔵場所をWikipediaから引用すると、以下の3つで見られるそうです。

尾張徳川家本は名古屋市蓬左文庫に、名古屋市史資料本は名古屋市鶴舞中央図書館に、また奥村家本は後に岩崎久弥の手を経て東洋文庫に所蔵されている。

そもそもなぜ「金城温古録」が作られることになったか

この記録を担当したのは奥村得義(おくむらかつよし)という、尾張藩の掃除中元頭です。
掃除中元頭というのは、名古屋城の堀や通路から屋外施設の管理や清掃、修繕を行う役職で、名古屋城のほとんどのところに立ち入ることができたポジションでした。

文政年間(1818年から1831年)で名古屋城の調査を計画してた尾張藩は、図面の作成や絵を得意とし、勤勉な働きぶりで有能な得義に白羽の矢を立てたということになります。

しかしその調査にずっと関われるわけではなく、「本職の合間にやるように」という命令。空いた時間を使って得義は、10年以上にわたって城内を隈なく調査、かつスケッチし、また各種手続き方や慣習などを書き留めて「金城温古録」を作りました。

門の数や狭間の数まで何でも書かれたスゴイ本

「金城温古録」は各郭を区画するすべての櫓、門、高塀の形態だけでなく、警護の役割を果たす番所の場所、服務規程に至るまで詳細に書いていました。
そして驚くのは各櫓の数や大きさ、狭間の数や武者返しの数にいたるまで超詳細にデータを書いています。

あの広い名古屋城をそこまでくまなく調べているのかと思うと驚きますね。
個人的には天守の地下の情報が気になりました。

やはり地下には有事に備えた物資の貯蔵庫、井戸など籠城に耐えうるものがしっかり完備されていたそうです。
さすが籠城戦で苦労した清正が担当した天守だけありますね。

しかも小天守の地下には金蔵があり、築城当初は家康から贈られた30万両の金と9000貫の銀があったとのこと。
お金も地下にしまってあったとは。

このように名古屋城の歴史を詳細に書き記した「金城温古録」。
本当に調査や記録を残してくれた奥村得義の偉業はスゴイなと思いました。

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北村美桂

岐阜県出身。歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営と、Google Analyticsを活用したライティングを行うWebライター。現在は参加者全員が新聞紙カブトをかぶる歴史イベント「名古屋歴史ナイト」を3ヶ月に1回開催中。会の情報はこちらでも更新中。

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