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尾張藩のお控えで、幕末に活躍した「高須四兄弟」ゆかりの高須城跡

2018.04.02

高須藩は尾張徳川家の分家として家格が高く、徳川御三家、御三卿につぐ名門として知られています。
尾張藩に後継者が居ない場合は、相続する養子を出すなど尾張藩の「お控え」としての役割も果たしていました。

特に10代藩主の義建の子で、「高須四兄弟」と言われる尾張藩主の徳川慶勝、御三卿一橋家の徳川茂春、会津藩主の松平容保、桑名松平家の松平定敬(さだあき)は、幕末に活躍した名君といして有名です。

そんな高須藩の居城であった、高須城は明治時代に取り壊されて残っていませんが城下町の跡や、一部の遺構が今でも残っています。

高須城の堀跡にかかる主水橋

高須城は当時は高須館と呼ばれていて、主水橋の北側で現在の海津明誠高校の付近にあったと言われています。
高須藩松平家のパンフレットによると、以下のように解説されています。

北に川を巡らせて、西に林を控えた場所に堀を3重に構え中央に本丸、園周辺に二の丸、三の丸があった。
明治六年(1873)官有地となり、家禄奉還の人々に払い下げられ、居館、石垣などすべてが破却された

主水橋は高須城の堀跡の上にかかっている橋で、数少ない遺構のひとつです。

その近くの公園にはこんな看板も。

高須町の氏神様である稲荷大明神には、高須四兄弟の父・義建の揮毫額があります。

さらに付近の住宅で石垣が高く積まれている家がちらほらあるのは、武家屋敷の名残です。
この周辺は武士より町民が先に住んでいたため、武家屋敷は海抜の低いところに建てざるを得ませんでした。
そのため、石垣を高く積んで水害対策を行っていた。その名残が高い石垣に現れているのだそうです。

高須別院:二恩寺は高須藩初代の義行が名古屋の職人に作らせたもので、城下町の人びとに時間を知らせる「時の鐘」として使用されました。

高須藩は江戸の四谷に屋敷があって、参勤交代でほぼそちらに住んでいたようですが、高須城にもいたのだという足跡が感じられる場所が残っています。
ちょっと高須藩とは離れますが、「市神さん」と呼ばれるこの石は刻印石で、もともとは船着き場近くにあったことから名古屋城の石垣として使われる予定のものだったのではと言われているとか。とても大切に扱われているのが伝わりますね。

また、ちょっと離れた場所にある「行基寺」が高須藩の菩提寺で、藩主のお墓があります。
高須藩の遺構はほとんど残っていませんが、かすかに残る遺構を見るだけでも十分に家格の高さを感じられました。

高須四兄弟については未だわかっていないことも多いのですが、研究者や徳川美術館の学芸員の協力をうけて七年かけて書き上げた『葵の残葉』も今年発売になりました。
徳川慶勝を主人公にした小説です。

高須藩と幕末についてのことを知るきっかけになるので、おすすめです。

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北村美桂

岐阜県出身。歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営と、Google Analyticsを活用したライティングを行うWebライター。現在は参加者全員が新聞紙カブトをかぶる歴史イベント「名古屋歴史ナイト」を3ヶ月に1回開催中。会の情報はこちらでも更新中。

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