尾張平定には織田家臣団の統一が必要不可欠な時代だった。いまだ尾張の混乱は収まらず、美濃の斎藤道三が亡くなり、その息子が反・信長派に加勢するなど、状況は悪化する一方。その中で稲生の戦いなど親族との戦いを余儀なくされていく。
ついに1558年浮野の戦いで岩倉城主を破り、城主の織田伊勢守信賢を降伏させ、終わりを統一、その時織田信長は24歳。元服してから9年後のことだ。
尾張平定後、織田信長を語る中で一番有名な出来事は、やはり「桶狭間の戦い」ではないだろか。平定後わずか2年で駿府の大大名である今川義元を破ることになる。
未だ謎に包まれたままの桶狭間の戦いだが、兵士の数から言っても圧倒的に今川軍が四万五千の大軍で、織田軍はわずか2000にも満たなかった。実際に相手が相手だけに、今川軍との戦いに関しては織田家も否定的だったに違いない。この時、今川義元の人質だった徳川家康は、今川軍の城である大高城に食料を運び込んでいた。その大高城の付近の付城を織田軍が落とし、その援軍として沓掛城から、大高城へ今川軍が入ろうとする一瞬で勝負が決まった。
今川家の敗北により、徳川家康は独立し、織田信長と清洲同盟を結ぶ。この桶狭間の戦いは、劣勢なものが大きな敵に向かい勝利を収めた戦として印象に残る合戦の一つだと思う。謎の多い戦いであり、いまでもたくさんの議論がなされている。しかし、実際にこの戦いにより織田信長の名は全国に知れ渡たり、一介の大名から「あの今川義元を破った尾張の織田信長」となっていった。
そして2015年に小牧山城で石垣が見つかり、織田信長が初めて築城した城は小牧山城ではないかという発見があったばかりだ。当時の織田信長は、尾張で天下統一の準備を始めていたのかもしれない。
広い範囲にまたがってはいるが、戦国時代の人気武将の織田信長が生まれ、この逆転劇を産んだ場所として、尾張地方の人々にとっては誇らしい存在なのではないかと思う。