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世紀の大番狂わせ
桶狭間の戦いを紐解く

世紀の大番狂わせ桶狭間の戦いを紐解く
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桶狭間の戦い概要

桶狭間の戦いは、永禄3年(1560)5月19日、尾張の織田信長が約3000の兵で、駿河・遠江・三河を治めていた今川義元率いる約2万の大軍を打ち破ったという戦いです。
この桶狭間合戦の詳細については複数説があり、その真相はまだわかっていません。
そもそもこの戦いが起こる前に、今川軍と織田軍には何があったかを解説しましょう。

足利将軍家の流れをくむ、駿河国守護の今川家は東海地方での勢力をどんどん拡大していき、今川義元の代ではさまざまな国衆が治めていた遠江も配下に入れていきます。隣接し合う相模国の北条氏、甲斐国の武田氏とも「甲相駿三国同盟」を結びます。今川家はここで三河・尾張を手中に収めることに専念できる体制となります。

まずは遠江と隣接する三河。ここは国衆の松平氏の配下にありましたが、徳川家康の祖父である松平清康が「森山崩れ」で家臣に殺され、父の松平広忠も天文18(1549)年3月6日に死去。求心力を失った松平家に対し、三河侵略を進めようとする尾張の織田、駿府の今川との間に挟まれます。その時に、小豆坂の戦い、安祥城をめぐる戦い、徳川家康誘拐などさまざまな事件が起きていますが、最終的には今川家へ家康が人質に行き、実質三河国は今川家の支配下に置かれるようになります。

すると、三河まで手に入れた今川義元にとって、次に隣接するのはどこかというと「尾張」です。

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織田信秀の死去後、跡を継いだ織田信長とその弟・信勝の間で内紛が起きてしまい、織田家も求心力が定まらない状態となってしまうのです。

織田家の城であった鳴海・笠寺城を守る山口氏が今川方に投降し、山口氏の調略で大高城、沓掛城も今川に寝返ることとなります。さらには尾張西南の蟹江城も今川方に攻略されていて、伊勢湾海域も今川の手中に収められていき、織田家としては大ピンチの状況。

しかし、織田家も応戦します。1554年には知多の領主である水野氏を支援して今川方の村木砦を攻め落とし、笠寺城を奪還し、寝返られた鳴海城の周辺には丹下砦・善照寺砦・中嶋砦を、大高城の周辺には丸根砦・鷲津砦と付城を築いて臨戦態勢に入っていきました。

桶狭間の戦い

こうした尾張をめぐる攻防が激化する中、永禄3年(1560)年5月12日、今川義元は自ら大軍を率いて駿府から尾張を目指して進軍を開始。今川義元軍の進軍が桶狭間の戦いのスタートとなります。

5月17日には沓掛城に入り、5月18日夜、徳川家康が率いる三河勢に大高城に兵糧を入れる役割を命じます。危険な役割ながら見事に成功させた徳川家康。しかも19日には大高城の付城である織田軍の鷲巣、丸根砦も落とし、誰もが今川軍の勝利を予感していたのではないでしょうか。

一方、織田軍のほうは2000から3000人といわれる軍勢を整えます。5月20日に清州城を明け方4時頃出発、午前8時頃に熱田神宮に到着し戦勝祈願を行い、鳴海城の付城である善照寺砦に500ほどの兵を待機させます。

鳴海から見て東南方向にあたる桶狭間に今川軍の存在を察知し、進軍を開始した織田軍。 ここで今川軍が崩れ、大将であった今川義元の首を取ることができたということになります。

様々な桶狭間合戦をめぐる説

どうやって進軍したかについては現状、いくつか説があります。

まずは江戸時代の定説であり、明治時代の陸軍参謀本部の「日本戦誌 桶狭間役」でお墨付きを与えられた「迂回奇襲説」。織田信長軍が2000の兵を率いて迂回路を通って、上洛中の義元の本陣に接近するという作戦です。その時の天気は暴風雨だったので、豪雨で進軍の気配が消せることを利用し、信長軍は山の上から奇襲をかけ義元を討取ったという説。

しかしこの「迂回奇襲説」ではなく、主流となっているのは、「信長公記」の記録を元にした、今川軍の正面から攻撃を仕掛けたとする「正面攻撃説」です。これは藤本正行氏が1993年の『信長の戦国軍事学』で提示されたもの。

正面攻撃説は、桶狭間山(丘陵地)で休憩をしていた今川義元軍のスキをついて、織田軍が攻撃を仕掛けたというものです。

織田信長は中嶋砦から山際まで進軍。(中島砦→釜ケ谷へ移動し攻撃をしかけたとも)その日は激しい暴風雨であり、中島砦から釜ヶ谷を経由し桶狭間山に進軍しても、雨により織田軍の気配が消せるタイミングでした。そして雨が止み、今川軍の姿を確認してから織田軍が攻撃。休憩中で準備ができていなかった今川軍が総崩れになってしまったというものです。

そして近年注目されているのが「正面奇襲説」です。 これは千田嘉博氏が2013年『信長の城 (岩波新書)』にて提示したもので、今川軍は山の尾根に陣を張ったのではなく山の裏側に居た、そのため織田軍も今川軍も両者の姿が見えない場所に居た、地形に詳しい信長が裏側の地形を読み切り、桶狭間山をすり抜けて奇襲攻撃をかけたというものです。

お互いの姿が確認できないのに奇襲するというのはリスクがありすぎる気がしますが、相手の動きを見張るスポットとして、善照寺砦の存在があります。ここは鳴海城の後詰めの城とみせかけて、実は桶狭間山の今川軍の姿を監視する目的だったものとすれば・・・。しかもここは丘陵地で、どんなに大軍であっても数列でしか進めない地形。数列でしか進めないところを狙えば、兵力差が圧倒的である織田軍でも対応できると踏んでいたのかもしれません。

このようにまだどの説が正しいのかは、研究され続けています。
ハッキリとはわからないからこそ、実際に史跡に行ったり、さまざまな説を読んだり、あれこれ想像しながらこの戦いを楽しむことができるのかもしれません。

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桶狭間の戦いの史跡を巡る

沓掛城

沓掛城は室町時代に藤原義行によって築城されたと言われている。桶狭間の戦いでは今川軍の拠点として使われていた。しかし戦いで織田信長に敗れ、城主近藤景春は戦死。以降、城は空城となった。堀などが整備された公園として、現在もその面影を感じることができる。

愛知県豊明市沓掛町東本郷11
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桶狭間の戦い伝説

今川義元の墓がある豊明市の桶狭間の戦いのあったと言われる場所。「七石表」と呼ばれる7つの石碑があり、これは今川義元をはじめ武将が戦死した場所を示したもの。緑区にも桶狭間古戦場公園があり、1キロ程度の距離なので両方見学に行く人が多い。

愛知県豊明市栄町南舘11
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資料提供:名古屋市秀吉清正記念館