豊臣秀吉にとって晩年を過ごし、最期を迎えた伏見城のある京都。しかし豊臣秀吉が京都に残した功績は、京都の街づくりや文化に影響を与えたことだ。
1586年、豊臣秀吉は九州征伐を終え、政庁兼邸宅として49歳の時に京都に聚楽第を作る。聚楽第を中心に城下町を作り、範囲は二条城まで広がったという。そして1590年に、小田原征伐を行い名実ともに「天下人」となる。その権威を広くアピールすべく、北野天満宮で「北野大茶会」で、市民も交えた1000人規模の茶会を企画。当時では珍しい、身分に関係のなく茶を飲み交流するという大イベントだった。その一方で、洛中を取り囲む「お土居」の構築や、寺町を作るなど、現在の京都の基礎を作っていくことになる。
また京都在住時は、念願だった世継ぎに恵まれるなど、プライベートも充実していた時期でもある。秀頼や奥方たちと一日だけの花見、「醍醐の花見」を楽しむなど、他の地域では見られないような行事も行われた。ちなみにこのことがきかっけで、「花見」という文化が今でも根付いているという逸話もある。
その後、京都新城を構えたものの移居することはなく、翌年、伏見城で息を引きとった。
農民の子として生まれ、天下人にまでなった豊臣秀吉。この大出世は他に類を見ないものだ。特に城持ちになってからどんどん町を発展させていき、その力を京都で出しきったように感じる。