長浜を拠点としたころの秀吉は、木下藤吉郎から羽柴藤吉郎秀吉に改姓した30代。この時はとにかく希望にあふれた時代だった。初めての城持ちとなり、出世街道を駆け抜けていったこの時代を過ごした長浜。今でも住民にとって、豊臣秀吉は長浜を作った武将として親しまれている。
大きく出世していくきっかけとなったのは、金ヶ崎の戦いで殿をつとめたことにある。
金ヶ崎の戦いは、義理の弟浅井長政の裏切りにより、信長が命を落としかけたというほど、追い詰められた戦い。その激戦の一番の難所、殿をつとめて見事に敵の進軍を食い止めた功績から、姉川の戦いの浅井攻めの重要拠点、横山城の城番を命じられることになる。
そこで足掛け4年、浅井攻めの拠点として重要な役割を果たし、難攻不落の小谷城を落とすことに大きく貢献。その功績を認められ、小谷城を与えられるが、そこには住まず、新たに37歳の時に長浜城を築城。以降、備中高松城の戦いをはじめとする中国平定、山崎の戦いでは主君・織田信長の仇討をするなど目を見張るほどの活躍を見せる。
当時の豊臣秀吉は、織田家の重要プロジェクト、毛利家の治める中国計略を命じられ、約6年間姫路城を拠点としていた時期でもあった。そのために長浜を留守にしがちな時期でもあったが、妻のおねが黒田長政など未来の有名武将を育てるなど夫の留守を預かっていた。長浜はおねも一緒に守っていた土地でもある。
街づくりの面でも才覚を発揮した時代であった。今でこそ豊臣秀吉が親しまれているが、当時の住民は浅井派の住民が多く、なかなか受け入れられなかった。しかし、豊臣秀吉は年貢を1年免除などの恩典を与えるなど、斬新なアイデアで徐々に住民の支持を得て、長浜への移住者を増やし、ここに城下町を作ることに成功。当時は長方形が主流だった城下町を、碁盤の目のような正方形で作るなど先進的な城下町のルーツを形成した。