大阪での豊臣秀吉は、天下人としての階段をどんどん駆け上がっていく時でもあった。 1583年、賤ヶ岳の戦いで宿敵柴田勝家を打ち取った同年、大坂城を築城。その後、大坂城を拠点に小牧・長久手の戦いで徳川家康に大敗を期すも、政治的な立ち回りで宿敵の徳川家康を配下にすることに成功。そして九州攻めで島津氏を服従させて、1590年の小田原の役までの7年間で天下統一を果たした。
大坂城の跡地は、もとは石山本願寺のあった場所。織田信長が約10年間に渡り、抗争を続けた石山本願寺。秀吉は織田信長も成し得なった、場所に大坂城を築城することができたのは、師匠超えの瞬間でもあったのではないだろうか。この城は防御力の堅固さはもちろん、当時としては最高の高さ(44メートル)をも持つ城だった。この外観を見るだけで「豊臣秀吉こそが天下人だ」と知らしめるだけのインパクトがあり、あまりの力の差に感服し、近隣の大名は豊臣秀吉の配下に入ることを望むようになったという。
同時期に京都に聚楽第も作っているが、大坂城は「おもてなし」の城として機能していた。諸大名をこの城に招待し、天守閣までを一通り案内。絢爛豪華な城に財宝などをたくさん見せる。もっと関係を深めたい人には奥屋敷にある自慢の寝室を見せ、より特別な人物には山里丸の茶室で茶を振る舞い、徐々に懐に入っていく。このように大坂城は政治的外交的にも活用した城でもあった。
長浜に次ぎ、大阪でも豊臣秀吉は街づくりにも尽力した。当時は天王寺・堺は別の大名が治めていましたが、それを統一し、現在の「大阪」を作ることになる。