駿府で家康は生涯、竹千代時代と徳川家康時代、大御所時代の3回を過ごしている。余生をここで過ごしたことから、地域の人にとっては「人生で最も気に入っていた場所なのではないか」という自負がある。温暖な寄稿、豊かな自然。大好きな鷹狩をして過ごす穏やかな時間を駿府で過ごした。そのためか戦のあとではなく、文化の成熟度がみられる史跡や郷土品が多くみられ、その文化が今にも引きつがれている。
初めて徳川家康が駿府に来たのは、竹千代と呼ばれる少年だった頃。今川家の人質として駿府にやってきた。
人質と言っても無碍にされるわけではなく、今川家を支える重鎮としての成長を期待し、たくさんの教育をつけ大切に育てた。その時に臨済宗の住職である太原雪斎からも教えを受けている。
元服も駿府で行い、結婚、嫡男をもうけることにもなったが今川家が桶狭間の戦いで敗戦。それにより今川家から独立し対立の結果、今川家の領土は徳川家のものとなる。
しかしその戦乱の中、駿府は戦火で壊滅状態に陥っていた。1585年より、自身の領土になった駿府に居城を持つべく、現在の二の丸以内に駿府城の築城を開始。しかしすぐに豊臣秀吉により、関東に国替えとなってしまう。
その後、湿地だらけだった江戸を生まれ変わらせ、江戸幕府を開き、家督を秀忠に譲って、自身は大御所政治の拠点として駿府に戻ることになる。
以降は、三の丸部分まで拡張し、町割りや安倍川の治水事業などを行い、静岡市の市街地の原型を造ることに。大御所政治の拠点となった駿府も、駿府は江戸を凌ぐ政治・経済・文化の中心としてその黄金時代を迎えることとなる。
住んでいる方にとって、駿府の輝きはいまでも誇りとなっている。大御所・徳川家康が築いた文化や城の威厳をもう一度、見える形で復元したいとさまざまな取組みを行っている静岡。ここは江戸に次ぐ、徳川家康のお膝元の街であるという想いが人を通して伝わる。
幼少期に両親と別れ、織田家の人質・今川家人質・三方ヶ原の戦い・関東へのくら替え。これらの苦難を乗り越えて糧にしてきた徳川家康。そして、100年以上の混乱の時代、戦国時代を終わらせて平和な世の中をつくった。その江戸時代は300年以上続き、その映画は戦国時代よりも長く続いた。徳川家康は今でも、切立った山の奥に溶け込む久能山東照宮から平和を見ているのではないだろうか。