徳川家康の浜松時代はまさに天下取りへの足がかりとなる期間。29歳~45歳までの17年間を浜松で過ごした。歴代城主の中には幕府の要職に登用された者も多いことから、浜松城はのちに「出世城」と呼ばれるようになった。浜松に住む人は、「のんびりしていて気候がいいから、徳川家康はこの場所を気に入っていたのではないか」という。
徳川家康にとっての浜松は、天下統一のためのステップであり、試練を味わう場でもあった。それは今川氏、上洛を目指す武田氏との戦いはゆうに14年にもおよぶ長い戦を制する必要があったためだ。
まずは三河から東進し今川家の制圧。その後、武田家を倒すため、1570年に岡崎城を長男の信康に譲り、三方原台地の東南端に浜松城を築城する。
その後、関ヶ原の合戦よりも激闘だったと言われる三方ヶ原の戦いで、武田家3万の兵に対し、1万の兵で挑み大敗を期したことは有名だ。たくさんの家臣を失い、自分の命も危うくなるほど追い詰められた。その時の失敗を忘れないよう、「しかみ像」を生涯持ち歩いたことも有名。
しかし、その間に武田信玄が死去。3年後、長篠の戦いで織田・徳川連合軍として武田軍に勝利。ようやく駿府・遠江を手に入れた。
そして再び徳川家康は命を落としかける事件が起こる。それは同盟を結んでいた織田信長が、本能寺の変で織田信長が殺されたのだ。その時大阪にいた徳川家康も命を狙われることになり、服部半蔵とともに「伊賀越」をして移動した。
そして、織田家vs豊臣秀吉という構図になる中、小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉に勝利するも、織田信雄の判断により豊臣秀吉の重鎮として取り上げられることになることになる。
以降浜松・駿府など5カ国の大名になるも、豊臣秀吉の命により江戸へ国替えになってしまう。
以降、江戸時代には入城すると江戸の要人になる「出世城」として全国の大名が城主になりたい城として人気となる。今では、出世旅PRが行われ、縁起のいい町として知られている。