三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の待望の嫡男として、岡崎城で産声を上げた徳川家康。幼名は竹千代と呼ばれ大切に育てられるはずだった。
しかし、戦国時代らしく、生まれた時から波乱万丈の人生がスタート。当時の三河は、隣国尾張の織田家と、駿府を支配する大大名の今川家に挟まれた状態。徳川家康はわずか6歳で実母との生き別れ、7歳で人質として駿府の今川家に送られ、8歳で父親が家臣に殺されるなど、次々と試練を経験する。10歳にもならないうちに、両親を失い天涯孤独となってしまった。
しかも人質として護送される途中、家臣の裏切りで織田家に奪われてしまうなど、自分が道具のように扱われる時代。その2年後に織田家より今川家に取り返され、駿府で臨済宗の住職・太原雪斎などから教育を受ける。将来・今川家の家臣として活躍することを期待され、大切に育てられた。
15歳で元服し、名前を今川義元の1文字をもらい「元康」と改名するが、また事態が変わる。「桶狭間の戦い」で織田家が今川義元軍を破ったのだ。
徳川家康はその時19歳。今川軍の要所である大高城に食料を運ぶ役目を果たしていたが、まさかの主君の死。徳川家康自身も命が危ない状況だった。
追い詰められ、自決を覚悟し駆け込んだ松平家の菩提寺の大樹寺の住職に「厭離穢土 欣求浄土」の言葉をもらう。戦乱の世を終わらせ、平和な世の中を作る役目があると住職に諭され、命を救われた場所だ。以降、徳川家康の旗印として自身に刻みつけた使命。その後、今川軍から岡崎城を取り戻し独立。22歳の時に「家康」に改名。三河一向一揆をおさえ、三河を平定した。
長い今川家の支配から逃れることになった。岡崎にいた時間は少ない。しかし、天下統一にむけての一歩が始まった大事な場所なのだ。