1576年から安土に入った織田信長。岐阜城より京都に近く 、越前加賀の一向衆の一揆や上杉謙信への備えもでき、水路が活用できる安土。小牧山城に次ぎ、安土城を築城する。この安土城は織田信長の集大成ともいうべき、七層造り天守閣を持つ本格的な城郭で、その豪華さは人々を驚かせたという。この城は政治的な戦略としての色が強いものだと言われていて、高さ46メートルの壮大で絢爛豪華な様はキリスト教宣教師が絶賛した。
しかし、築城以来わずか3年で安土城は焼失し「幻の名城」と呼ばれてきました安土城に移った信長は官位も次々に進み、内大臣から右大臣、1577年には正二位に叙せられる。また備中高松、三木城の落城、本願寺の降伏、備前の宇喜多秀家らが味方し、宿敵・上杉謙信の死去など天下が目前になっていた時代。
安土で織田信長が見せた一面は、有能な政治家という部分だ。安土はもともと馴染みがあった大名は観音寺城の佐々木六角氏。その六角氏に代わり、安土城を築城し、城下町を作ってもなかなかその地に住むことを選択しない住民。織田信長は「泣かぬなら殺してしまえホトトギス」からイメージされるような、残虐さや冷血さは見せなかった。一向一揆の鎮圧もあったが、その実行者たちを殺すことなく、税収を得ることに活かしていく。安土城を中心に、税制面での特典を与えるなど、楽市楽座で商人を積極的に誘致するなど、安土に住むメリットを大きく打ち出し、町の安全性をうたっていった。
さらには織田信長が実は几帳面に礼節やしきたりを重んじる人柄であったとも言われている。当時の武将の中では文書の多い織田信長。その中で手紙のルールを遵守し、その手紙を送る相手によって自分の立場をへりくだったり、権威を示したりと人との距離感を図り、人との関係を繋いでいく一面も感じられるのだという。
織田信長が次の未来のために行動を起こそうとした時期、本能寺の変により自刃。49年間の生涯を閉じた。安土にいたのはわずか7年間。それでも天下が誰の目にも明らかになってきた、もっとも輝いていた時代。時間は短いものの、安土の織田信長の印象が強く残っている人も多いはずだ。