尾張を平定した信長は、美濃平定すべく岐阜城入城。本来ならば、侵略者として地元や斎藤氏の家臣からは冷遇されるところを、自然と美濃に受け入れられた織田信長。それは斎藤道三の娘と結婚していて、斎藤氏の親族であること。また息子のお家騒動や、竹中半兵衛に16名で岐阜城を攻められ陥落するなどが続き斎藤家への不振が募っていたことなどがあげられる。道三も遺言に織田信長に美濃を守ってほしいと書いたという話もあるほどだ。
父親の信秀も手果たせなかった美濃攻略ができた。
また、言葉や概念づくりのパイオニアとしての一面もある織田信長。現在の岐阜という名前の名付け親も、ご存知、「天下布武」の「天下」という言葉を初めて公にしたのは彼だ。この言葉の由来は、禅宗の僧侶の業界用語のようなもので一般化はしていなかった。なぜ織田信長はそれを知っていたかというと、傅役の平手政秀の墓を立てた沢彦や、岐阜市内の禅宗の僧侶との交流の中で中国文学を学ぶ背景があっとこと。その中で、「岐阜」や「天下布武」という言葉を一般的に使い始めたのではないかという話もある。
概念的なことだけではない。岐阜城の改修などにより、政治の場所としての要素も城に追加していくなど、城や街づくりにも新しい試み、街を発展させていった。
もちろん華々しい点だけでなく、苦難もあった。近しい人による裏切りだ。足利義昭とともに幕府再興に協力するも、2回も足利義昭により謀反を起こされてしまう。また義理の弟で同盟を結んだ浅井長政の裏切りにあい、3年にも及ぶ姉川の合戦が行われるなど逆風厳しい時でもあった。しかし、天下人として有名になるきっかけは、長篠の戦いで強敵武田軍に勝利したこと。馬防柵や火縄銃など新たな戦術を編み出し、あの武田軍に勝利したということで全国的にも名前を轟かせてた。
その後も豊臣秀吉が中国地方を担当するなど、家臣たちを全国の強敵大名の対応に当たらせ、着々と天下統一を目論んでいく。
岐阜はわずか9年であったが、「岐阜県」という名前は織田信長がつけたものであること、天下という新しい言葉を世に知らしめるなど、岐阜が織田信長の次のステージへの始まりの場所として誇りに思っている。