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~日本一の出世をはたした秀吉公の生涯を旅する~
- 武士になりたかった農民出身の少年は、武士になるチャンスを活かし、それをモノにしていったのが豊臣秀吉の中村区での人生。 豊臣秀吉は中村郷の中々村(名古屋市中村区)で生まれ育ったと言われている。農民出身の豊臣秀吉(幼名は日吉丸)は、貧しくも明るい子供時代を送っていた。当時は…続きを読む
- 武士になりたかった農民出身の少年は、武士になるチャンスを活かし、それをモノにしていったのが豊臣秀吉の中村区での人生。
豊臣秀吉は中村郷の中々村(名古屋市中村区)で生まれ育ったと言われている。農民出身の豊臣秀吉(幼名は日吉丸)は、貧しくも明るい子供時代を送っていた。当時は農民と武士の身分制度が明確に決まっていなかった混乱の時代。農民出身でも豊臣秀吉には「武士になりたい」という夢があったのかもしれない。 そして15歳の時、駿府の名門・今川義元に仕えるべく、浜松の松下屋敷に奉公に出る。当時仕えた松下加兵衛には良くしてもらったようだが、同僚との折り合いが悪かったらしく、数年で故郷の尾張に舞い戻る。しかし、これが転機となった。地元に戻った豊臣秀吉は、江南にある生駒屋敷に出入りしはじめる。そこで当時川並衆で、後の豊臣政権を支える武将となる蜂須賀小六などと出会うことになる。 さらに、吉乃の紹介で、17歳の時織田信長に仕えるチャンスが舞い込む。武士になる最大のチャンスだ。ここから豊臣秀吉は念願の侍としての人生をスタートさせることになる。もちろん最初から重要なポジションを任されるわけではない。小者として馬飼いから始まり、台所奉行、織田信長の草履取りと様々な仕事を経験。何をやらせてもうまくこなす才覚が認められ、仕事の重要度も少しづつ増していく。その優秀ぶりは主君の織田信長からも、一目置かれる存在になっていく。 そして24歳の時、清須の城下町で出会った浅野長勝の養女・おねと結婚し、「木下」姓を与えられることになる。ここで本格的な「武士」としての準備が整ったのだ。
- 長浜を拠点としたころの秀吉は、木下藤吉郎から羽柴藤吉郎秀吉に改姓した30代。この時はとにかく希望にあふれた時代だった。初めての城持ちとなり、出世街道を駆け抜けていったこの時代を過ごした長浜。今でも住民にとって、豊臣秀吉は長浜を作った武将として親しまれている。 大きく出世していくきっかけとなったのは、金ヶ崎の戦いで殿をつとめたこと…続きを読む
- 長浜を拠点としたころの秀吉は、木下藤吉郎から羽柴藤吉郎秀吉に改姓した30代。この時はとにかく希望にあふれた時代だった。初めての城持ちとなり、出世街道を駆け抜けていったこの時代を過ごした長浜。今でも住民にとって、豊臣秀吉は長浜を作った武将として親しまれている。 大きく出世していくきっかけとなったのは、金ヶ崎の戦いで殿をつとめたことにある。 金ヶ崎の戦いは、義理の弟浅井長政の裏切りにより、信長が命を落としかけたというほど、追い詰められた戦い。その激戦の一番の難所、殿をつとめて見事に敵の進軍を食い止めた功績から、姉川の戦いの浅井攻めの重要拠点、横山城の城番を命じられることになる。 そこで足掛け4年、浅井攻めの拠点として重要な役割を果たし、難攻不落の小谷城を落とすことに大きく貢献。その功績を認められ、小谷城を与えられるが、そこには住まず、新たに37歳の時に長浜城を築城。以降、備中高松城の戦いをはじめとする中国平定、山崎の戦いでは主君・織田信長の仇討をするなど目を見張るほどの活躍を見せる。 当時の豊臣秀吉は、織田家の重要プロジェクト、毛利家の治める中国計略を命じられ、約6年間姫路城を拠点としていた時期でもあった。そのために長浜を留守にしがちな時期でもあったが、妻のおねが黒田長政など未来の有名武将を育てるなど夫の留守を預かっていた。長浜はおねも一緒に守っていた土地でもある。 街づくりの面でも才覚を発揮した時代であった。今でこそ豊臣秀吉が親しまれているが、当時の住民は浅井派の住民が多く、なかなか受け入れられなかった。しかし、豊臣秀吉は年貢を1年免除などの恩典を与えるなど、斬新なアイデアで徐々に住民の支持を得て、長浜への移住者を増やし、ここに城下町を作ることに成功。当時は長方形が主流だった城下町を、碁盤の目のような正方形で作るなど先進的な城下町のルーツを形成した。
- 大阪での豊臣秀吉は、天下人としての階段をどんどん駆け上がっていく時でもあった。 1583年、賤ヶ岳の戦いで宿敵柴田勝家を打ち取った同年、大坂城を築城。その後、大坂城を拠点に小牧・長久手の戦いで徳川家康に大敗を期すも、政治的な立ち回りで宿敵の徳川家康を配下にすることに成功。そして九州攻めで島津氏を服従させて、1590年の小田…続きを読む
- 大阪での豊臣秀吉は、天下人としての階段をどんどん駆け上がっていく時でもあった。 1583年、賤ヶ岳の戦いで宿敵柴田勝家を打ち取った同年、大坂城を築城。その後、大坂城を拠点に小牧・長久手の戦いで徳川家康に大敗を期すも、政治的な立ち回りで宿敵の徳川家康を配下にすることに成功。そして九州攻めで島津氏を服従させて、1590年の小田原の役までの7年間で天下統一を果たした。 大坂城の跡地は、もとは石山本願寺のあった場所。織田信長が約10年間に渡り、抗争を続けた石山本願寺。秀吉は織田信長も成し得なった、場所に大坂城を築城することができたのは、師匠超えの瞬間でもあったのではないだろうか。この城は防御力の堅固さはもちろん、当時としては最高の高さ(44メートル)をも持つ城だった。この外観を見るだけで「豊臣秀吉こそが天下人だ」と知らしめるだけのインパクトがあり、あまりの力の差に感服し、近隣の大名は豊臣秀吉の配下に入ることを望むようになったという。 同時期に京都に聚楽第も作っているが、大坂城は「おもてなし」の城として機能していた。諸大名をこの城に招待し、天守閣までを一通り案内。絢爛豪華な城に財宝などをたくさん見せる。もっと関係を深めたい人には奥屋敷にある自慢の寝室を見せ、より特別な人物には山里丸の茶室で茶を振る舞い、徐々に懐に入っていく。このように大坂城は政治的外交的にも活用した城でもあった。 長浜に次ぎ、大阪でも豊臣秀吉は街づくりにも尽力した。当時は天王寺・堺は別の大名が治めていましたが、それを統一し、現在の「大阪」を作ることになる。
- 豊臣秀吉にとって晩年を過ごし、最期を迎えた伏見城のある京都。しかし豊臣秀吉が京都に残した功績は、京都の街づくりや文化に影響を与えたことだ。 1586年、豊臣秀吉は九州征伐を終え、政庁兼邸宅として49歳の時に京都に聚楽第を作る。聚楽第を中心に城下町を作り、範囲は二条城まで広がったという。そして1590…続きを読む
- 豊臣秀吉にとって晩年を過ごし、最期を迎えた伏見城のある京都。しかし豊臣秀吉が京都に残した功績は、京都の街づくりや文化に影響を与えたことだ。 1586年、豊臣秀吉は九州征伐を終え、政庁兼邸宅として49歳の時に京都に聚楽第を作る。聚楽第を中心に城下町を作り、範囲は二条城まで広がったという。そして1590年に、小田原征伐を行い名実ともに「天下人」となる。その権威を広くアピールすべく、北野天満宮で「北野大茶会」で、市民も交えた1000人規模の茶会を企画。当時では珍しい、身分に関係のなく茶を飲み交流するという大イベントだった。その一方で、洛中を取り囲む「お土居」の構築や、寺町を作るなど、現在の京都の基礎を作っていくことになる。 また京都在住時は、念願だった世継ぎに恵まれるなど、プライベートも充実していた時期でもある。秀頼や奥方たちと一日だけの花見、「醍醐の花見」を楽しむなど、他の地域では見られないような行事も行われた。ちなみにこのことがきかっけで、「花見」という文化が今でも根付いているという逸話もある。 その後、京都新城を構えたものの移居することはなく、翌年、伏見城で息を引きとった。 農民の子として生まれ、天下人にまでなった豊臣秀吉。この大出世は他に類を見ないものだ。特に城持ちになってからどんどん町を発展させていき、その力を京都で出しきったように感じる。