出世街道を進む
蛇池神社
大蛇をみたというわさを聞いて、織田信長が自ら池に飛び込んだと言われる池。しかし蛇の姿はなく断念したと伝えられる。現在は神社と公園になっており、碑が立っている。蛇池の主竜神に因んだ櫃流(ひつながし)神事が毎年4月第2日曜日に行われている。
清洲城
織田信長公の天下取りの出発点であり、戦国の世を終結させ天下平定を目指す武将が重要拠点としていた場所。平成元年に現在の場所に『清洲城』として再建整備。清洲城天主閣からは名古屋などが一望できる。桜の時期は沢山の人が訪れる花見スポットとしても知られている。
日置神社
織田信長が桶狭間の戦いに出陣する際に、兵が集まるのを待ち、同時に勝利祈願をした神社。敦盛を舞った神社として有名。そのお礼に、戦いのあと千本の松をこの地に寄進したとのこと。日置神社の主祭神は占いの神様である天太玉命(あめのふとだまのみこと)。
善照寺(砦公園)
織田信長が桶狭間の戦いのときに鳴海上の付け時ととして築いた城跡。桶狭間の戦いの時に、信長はこの砦に兵を集結して桶狭間へ向かったといわれている。現在は砦公園として市民の憩いの場所になっているが、この付城の位置がキーポイントで桶狭間の戦いに勝利したのではないかという説もある。
大高城
大高城は室町時代に花井備中守によってが築かれた城と言われている。桶狭間の戦い当時は今川の家臣が入場していた。織田軍は桶狭間の戦いの前年から、大高城を取り囲む様に、丸根砦や鷲津砦作る。狙いは 今川方の連絡を絶つこと。桶狭間の戦い当時は、松平元康(後の徳川家康)が兵糧入れを行っていた城。現在も本丸と二の丸の跡が残っている。
沓掛城
沓掛城は室町時代に藤原義行によって築城されたと言われている。桶狭間の戦いでは今川軍の拠点として使われていた。しかし戦いで織田信長に敗れ、城主近藤景春は戦死。以降、城は空城となった。堀などが整備された公園として、現在もその面影を感じることができる。
桶狭間の戦い伝説
今川義元の墓がある豊明市の桶狭間の戦いのあったと言われる場所。「七石表」と呼ばれる7つの石碑があり、これは今川義元をはじめ武将が戦死した場所を示したもの。緑区にも桶狭間古戦場公園があり、1キロ程度の距離なので両方見学に行く人が多い。