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~戦国の風雲児信長公、波乱万丈の生涯を旅する~
- 織田信長は織田信秀の嫡男として1534年5月28日勝幡城で生まれた。当時の尾張は、美濃は斎藤道三、岡崎には松平広忠、さらにその東には今川義元が控えている状態。尾張の中もまた、清須の織田道勝、岩倉の織田信安、緒川城の水野忠政などいた。混沌とする中、織田信秀は交通・経済の要所である津島を抑え、古渡城を築き…続きを読む
- 織田信長は織田信秀の嫡男として1534年5月28日勝幡城で生まれた。当時の尾張は、美濃は斎藤道三、岡崎には松平広忠、さらにその東には今川義元が控えている状態。尾張の中もまた、清須の織田道勝、岩倉の織田信安、緒川城の水野忠政などいた。混沌とする中、織田信秀は交通・経済の要所である津島を抑え、古渡城を築き、熱田へと勢力を伸ばすなど短期間で勢力を拡大していた。 そんな中、信秀も苦難を抱えていた。安城城を今川軍にとられたり、斎藤道三攻めて大敗を期すなど苦しい道を歩んでいた。織田信長の誕生は織田家の体制強化のために重要な契機でもあった。そんな織田信長には傅役に平出政秀という、織田家の外交担当などをこなす重臣がつく。ちなみに平出政秀が、信長と濃姫の結婚をまとめたという説もあるほど。それほど優秀な平手政秀だが、家臣団から評判が悪いのがこの織田信長。いわゆる「うつけもの」と言われ、腹違いの兄や実の弟のほうが優秀だと、信長に家督を継がせることを案じる声も多数あったようだ。 しかし15歳の時、古渡城で元服し、美濃の斎藤道三の娘・濃姫と結婚。しかしなかなか家臣団をまとめることができず、本人のうつけぶりも健在だったようだ。 事態は一変する。1552年に織田信秀は死、その翌年、なかなか行動を改めない織田信長に傅役としての責任を感じ自刃。2人の大切な人を失った彼の心のなかはどうだったのだろうか。平手政秀の死は大変な悲しみだったようで、菩提を弔うべく寺も建立しているほど。 濃姫と結婚して5年。織田信長の器に気付いたのは、義理の父となる斎藤道三だ。聖徳寺で初めて会見した時、織田信長の常識的で、堂々とした身のこなしや振る舞いを見て、将来自分の子供が織田信長の家臣になると言ったのは有名なエピソードだ。 そんな彼が尾張を統一し、やがては天下を収める人物になっていく。
- 尾張平定には織田家臣団の統一が必要不可欠な時代だった。いまだ尾張の混乱は収まらず、美濃の斎藤道三が亡くなり、その息子が反・信長派に加勢するなど、状況は悪化する一方。その中で稲生の戦いなど親族との戦いを余儀なくされていく…続きを読む
- 尾張平定には織田家臣団の統一が必要不可欠な時代だった。いまだ尾張の混乱は収まらず、美濃の斎藤道三が亡くなり、その息子が反・信長派に加勢するなど、状況は悪化する一方。その中で稲生の戦いなど親族との戦いを余儀なくされていく。 ついに1558年浮野の戦いで岩倉城主を破り、城主の織田伊勢守信賢を降伏させ、終わりを統一、その時織田信長は24歳。元服してから9年後のことだ。 尾張平定後、織田信長を語る中で一番有名な出来事は、やはり「桶狭間の戦い」ではないだろか。平定後わずか2年で駿府の大大名である今川義元を破ることになる。 未だ謎に包まれたままの桶狭間の戦いだが、兵士の数から言っても圧倒的に今川軍が四万五千の大軍で、織田軍はわずか2000にも満たなかった。実際に相手が相手だけに、今川軍との戦いに関しては織田家も否定的だったに違いない。この時、今川義元の人質だった徳川家康は、今川軍の城である大高城に食料を運び込んでいた。その大高城の付近の付城を織田軍が落とし、その援軍として沓掛城から、大高城へ今川軍が入ろうとする一瞬で勝負が決まった。 今川家の敗北により、徳川家康は独立し、織田信長と清洲同盟を結ぶ。この桶狭間の戦いは、劣勢なものが大きな敵に向かい勝利を収めた戦として印象に残る合戦の一つだと思う。謎の多い戦いであり、いまでもたくさんの議論がなされている。しかし、実際にこの戦いにより織田信長の名は全国に知れ渡たり、一介の大名から「あの今川義元を破った尾張の織田信長」となっていった。 そして2015年に小牧山城で石垣が見つかり、織田信長が初めて築城した城は小牧山城ではないかという発見があったばかりだ。当時の織田信長は、尾張で天下統一の準備を始めていたのかもしれない。 広い範囲にまたがってはいるが、戦国時代の人気武将の織田信長が生まれ、この逆転劇を産んだ場所として、尾張地方の人々にとっては誇らしい存在なのではないかと思う。
- 尾張を平定した信長は、美濃平定すべく岐阜城入城。本来ならば、侵略者として地元や斎藤氏の家臣からは冷遇されるところを、自然と美濃に受け入れられた織田信長。それは斎藤道三の娘と結婚していて、斎藤氏の親族であること。また息子のお家騒動や、竹中半兵衛に16名で岐阜城を攻められ陥落するなどが続き斎藤家への不振が募っていた…続きを読む
- 尾張を平定した信長は、美濃平定すべく岐阜城入城。本来ならば、侵略者として地元や斎藤氏の家臣からは冷遇されるところを、自然と美濃に受け入れられた織田信長。それは斎藤道三の娘と結婚していて、斎藤氏の親族であること。また息子のお家騒動や、竹中半兵衛に16名で岐阜城を攻められ陥落するなどが続き斎藤家への不振が募っていたことなどがあげられる。道三も遺言に織田信長に美濃を守ってほしいと書いたという話もあるほどだ。 父親の信秀も手果たせなかった美濃攻略ができた。 また、言葉や概念づくりのパイオニアとしての一面もある織田信長。現在の岐阜という名前の名付け親も、ご存知、「天下布武」の「天下」という言葉を初めて公にしたのは彼だ。この言葉の由来は、禅宗の僧侶の業界用語のようなもので一般化はしていなかった。なぜ織田信長はそれを知っていたかというと、傅役の平手政秀の墓を立てた沢彦や、岐阜市内の禅宗の僧侶との交流の中で中国文学を学ぶ背景があっとこと。その中で、「岐阜」や「天下布武」という言葉を一般的に使い始めたのではないかという話もある。 概念的なことだけではない。岐阜城の改修などにより、政治の場所としての要素も城に追加していくなど、城や街づくりにも新しい試み、街を発展させていった。 もちろん華々しい点だけでなく、苦難もあった。近しい人による裏切りだ。足利義昭とともに幕府再興に協力するも、2回も足利義昭により謀反を起こされてしまう。また義理の弟で同盟を結んだ浅井長政の裏切りにあい、3年にも及ぶ姉川の合戦が行われるなど逆風厳しい時でもあった。しかし、天下人として有名になるきっかけは、長篠の戦いで強敵武田軍に勝利したこと。馬防柵や火縄銃など新たな戦術を編み出し、あの武田軍に勝利したということで全国的にも名前を轟かせてた。 その後も豊臣秀吉が中国地方を担当するなど、家臣たちを全国の強敵大名の対応に当たらせ、着々と天下統一を目論んでいく。 岐阜はわずか9年であったが、「岐阜県」という名前は織田信長がつけたものであること、天下という新しい言葉を世に知らしめるなど、岐阜が織田信長の次のステージへの始まりの場所として誇りに思っている。
- 1576年から安土に入った織田信長。岐阜城より京都に近く 、越前加賀の一向衆の一揆や上杉謙信への備えもでき、水路が活用できる安土。小牧山城に次ぎ、安土城を築城する。この安土城は織田信長の集大成ともいうべき、七層造り天守閣を持つ本格的な城郭で、その豪華さは人々を驚かせたという。この城は政治的な戦略として…続きを読む
- 1576年から安土に入った織田信長。岐阜城より京都に近く 、越前加賀の一向衆の一揆や上杉謙信への備えもでき、水路が活用できる安土。小牧山城に次ぎ、安土城を築城する。この安土城は織田信長の集大成ともいうべき、七層造り天守閣を持つ本格的な城郭で、その豪華さは人々を驚かせたという。この城は政治的な戦略としての色が強いものだと言われていて、高さ46メートルの壮大で絢爛豪華な様はキリスト教宣教師が絶賛した。 しかし、築城以来わずか3年で安土城は焼失し「幻の名城」と呼ばれてきました。安土城に移った信長は官位も次々に進み、内大臣から右大臣、1577年には正二位に叙せられる。また備中高松、三木城の落城、本願寺の降伏、備前の宇喜多秀家らが味方し、宿敵・上杉謙信の死去など天下が目前になっていた時代。 安土で織田信長が見せた一面は、有能な政治家という部分だ。安土はもともと馴染みがあった大名は観音寺城の佐々木六角氏。その六角氏に代わり、安土城を築城し、城下町を作ってもなかなかその地に住むことを選択しない住民。織田信長は「泣かぬなら殺してしまえホトトギス」からイメージされるような、残虐さや冷血さは見せなかった。一向一揆の鎮圧もあったが、その実行者たちを殺すことなく、税収を得ることに活かしていく。安土城を中心に、税制面での特典を与えるなど、楽市楽座で商人を積極的に誘致するなど、安土に住むメリットを大きく打ち出し、町の安全性をうたっていった。 さらには織田信長が実は几帳面に礼節やしきたりを重んじる人柄であったとも言われている。当時の武将の中では文書の多い織田信長。その中で手紙のルールを遵守し、その手紙を送る相手によって自分の立場をへりくだったり、権威を示したりと人との距離感を図り、人との関係を繋いでいく一面も感じられるのだという。 織田信長が次の未来のために行動を起こそうとした時期、本能寺の変により自刃。49年間の生涯を閉じた。安土にいたのはわずか7年間。それでも天下が誰の目にも明らかになってきた、もっとも輝いていた時代。時間は短いものの、安土の織田信長の印象が強く残っている人も多いはずだ。