秀吉公の晩年をめぐる
豊国廟
豊臣秀吉の廟所で、豊臣秀吉の遺体は阿弥陀ヶ峰中腹に葬られている。墳上には祠廟、山麓には社殿が建立された。1615年豊臣氏の滅亡と共に、廟は破壊され放置されていたが、明治に入って秀吉の300年忌に際し、廟宇が再建。墳上には巨大な五輪石塔が建てられ復活した。
北野天満宮
1587年に、関白になった豊臣秀吉が主催した大規模な茶会「北野大茶会」が開催された場所。千利休など名だたる有名茶人3名を茶頭として迎えて、盛大に開催される。当時として珍しいのは、身分を問わず参加を求め、服装も問わない自由な茶会というコンセプト。2日を予定していたもののなぜか1日で終わったという点は謎が残り、いろいろな説が今でも飛び交っている。
- 合格
- 学業成就
仙洞御所
豊臣秀次追放時に破却した聚楽第の後身として、豊臣家の本邸「京都新城」のあった場所。豊臣秀吉の死去後、正室・北政所(のちの高台院)が大阪より移り住んだ。その後江戸幕府によって改修工事が入り、豊臣時代の面影はなくなったが、阿古瀬淵は豊臣家邸宅庭園の遺構とも言われている。
満足稲荷神社
ちょっと変わった名前の神社。この「満足」の由来は、豊臣秀吉が伏見城の守護神として伏見稲荷大社の祭神を勧請し、1693年に現在地に遷座。伏見稲荷は、母の危篤時、豊臣秀吉が延命祈願をしたとされる神社だ。その伏見稲荷のご加護が受けられるとあって、「満足」したことに由来し、「満足稲荷神社」という名前になったという。
- 商売繁盛
- 開運祈願
伏見城跡出土遺物展示室
豊臣秀吉が嫡子秀頼の誕生をきかっけに、隠居所として建てた城。最後に豊臣秀吉が生涯を終えた場所としても有名。本丸の中央北に天守閣があり、本丸を取り囲む郭は、秀吉側室の居所とされ、周囲の郭は秀吉側近の邸宅が配置されている。豊臣秀吉の伏見城の築城により、伏見は城下町として大きく発展した。
醍醐寺
1598年に行われた「醍醐の花見」は、700本の桜を植え、盛大な宴として有名。豊臣秀吉は特に「三宝院」の景観がお気に入りで、自身の手で縄張りをした庭もある。醍醐の花見は、庶民の間でも「太閤さんの花見」として広まり、その結果「お花見」という慣習が伝わったという逸話も。
- 幸福
- 災難除け
方広寺
豊臣秀吉が、大仏殿と大仏の造営を行ったお寺。「大坂の陣」勃発のきっかけになった、豊臣秀吉の死後、息子の秀頼は寄進した「国家安康・君臣豊楽」の鐘があることでも有名。高さ4.2メートルの大きな鐘に、その一文を確認することができる。この梵鐘は国の重要文化財。
- 開運
豊国神社
豊臣秀吉を祀る神社で、「ホウコクさん」として地元の人に親しまれています。唐門は伏見城の遺構と伝えられて、現在は国宝に指定されています。ここだけのポイントは、豊臣家の家紋「桐紋」や「ひょうたん」が、飾金具など細かな部分にも施されていていること。そのマークを見つけて歩くのもおすすめです。
- 開運
- 出世
- 縁結び
聚楽第跡
豊臣秀吉が1587年に京都に造営した華麗壮大な城郭風の邸宅。二条城より一回り大きい規模で、周囲に堀をめぐらせたもの。しかし1595年、甥の秀次を謀反の疑いで追放した際に、聚楽第も破却してしまった。
報恩寺
「鳴虎」の絵があるお寺で、毎年元旦に公開されている。この絵の由来は、中国の有名画人の書いた「猛虎」の絵を豊臣秀吉が飾ると、夜中に虎の鳴き声が聞こえて、一晩中安眠できなかったという逸話のある絵。それだけ作者の魂のこもっていることが伺える。
淀城跡
最初は戦国時代に築城された城跡に、豊臣秀吉が淀君の産所として修築した城跡。ここへ移り住んだことを期に、茶々は淀君と呼ばれるようになった。その後、伏見城の築城で廃城になったが、1623年に松平定綱によって再築城される。現在は石垣と天守台のみが残っていて、京阪本線「淀」駅のホームからも見ることができる。
御香宮神社
1591年に、豊臣秀吉は朝鮮出兵の戦勝を祈願しにここに参拝した。その時に名刀「金熨斗付太刀」を奉納し、その刀は重要文化財になっている。さらに伏見築城に際して豊臣秀吉は、祀られている神功皇后を伏見城の守り神にする。境内から清泉が湧き出ていて、それを飲むと病が癒えたという伝説があり、今でも神霊の宿る御香水とも親しまれている。
- 安産守護
- 子育て
御土居
御土居は1591年に豊臣秀吉が,長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として行った土塁工事。外敵の来襲に備える防塁と,鴨川の氾濫から市街を守る堤防として作られました。この土塁ができて、洛中、洛外の区別がされるようになったとも。上京区北野天満宮西側の土堤は原型に近いものとして知られている。
浄土院(湯沢山 茶くれん寺)
1000人規模の北野大茶会の時、豊臣秀吉が立ち寄りお茶を出して欲しいと頼んだ寺。しかし庵主は下手に出せば恥をかくだけ、と白湯(さゆ)ばかり出したというエピソードから、豊臣秀吉は「湯沢山茶くれん寺」と命名。豊臣秀吉のユーモアが垣間見えるエピソードも面白い。
- 災難除け
三条大橋
東山区と中京区の境の鴨川に架かる三条大橋は、豊臣秀吉の命をうけた奉行・増田長盛により、日本初の石柱橋として架設されたもの。同じ場所に以前から橋はあったものの、強度が弱く小田原征伐を決意した秀吉が急遽作らせ、この橋から出陣したとも伝えられている。