太閤さんの息吹をめぐる
豊臣秀吉像(豊国神社内)
彫刻家・中村晋也氏による高さ5.2メートルの豊臣秀吉公の銅像。明治26年に大阪城内に建立され、現在は豊国神社内に。戦争時に供出されていましたが、市民の声で再建が実現。秀吉公を身近に感じられる銅像として親しまれている。
- 開運
- 出世
豊国神社
手前の一段低い所に、そびえる五間二階の楼門。壇上伽藍はかつて天保14年(1843年)の大火により、西塔のみを残して、ことごとく焼き尽くされた。先代の中門もその折に失われ、今日までなかなか再建が叶わなかったが、高野山開創1200年を記念して170年ぶりに、再建された。
- 開運
- 出世
- 商売繁盛
豊臣秀頼、淀殿自刃の地
大阪夏の陣の時、豊臣秀頼、淀殿、他、臣下の武将や侍女たち30余名が、大坂夏の陣で自決した場所だとされている。大坂城の真裏、山里丸の中にあり、目の前には公園があり人の往来も多く賑やかだが、石碑周囲は非常に静寂に包まれた空間になっている。
南無阿弥陀仏の像
碑の付近にある、大阪市教育委員会の説明によると、明応5年(1496)、本願寺第8代宗主蓮如は摂津国東成郡生玉庄内の大坂に坊舎を築いた。「大坂」という地名が歴史上初めてあらわれるのは、明応7年(1498)11月21付の蓮如の『御文(御文章)』とされている。
石山本願寺推定地
山科本願寺が炎上し、本願寺はこの地に移転した。その後、織田信長と対立し、元亀元年(1570)から11年間に及ぶ石山合戦の後、大坂を退去。秀吉は大坂(石山)本願寺と寺内町の跡に大坂城を建設。大坂(石山)本願寺の遺構は確認されていないが、この辺りがその遺跡と推定されている。
千貫櫓(西の丸庭園)
西の丸公園の西南隅に位置し、大手門を側面から防御する重要な櫓。名前の由来は織田信長が石山本願寺を攻めた時、横矢が効果的に飛んでくる隅櫓がこのあたりにあって難儀し「あの櫓を落とした者には千貫文の銭を与えても惜しくない」と話したことにあるという。
安居神社
真田幸村が戦死したと言われている場所がある、安居神社。真田幸村を演じた俳優たちが、ヒット祈願で絵馬を掛けに来るなど参拝客のたえない神社。太閤好きの地元・大阪では幸村人気も同じくらい高い。
- 商売繁盛
- 起業成就
- 合格祈願
- 学業成就
真田の抜け穴(三光神社)
「真田の抜け穴跡」は、大坂の陣の時、幸村隊は各所にめぐらせた抜け穴を通って、神出鬼没に現れ、家康軍を翻弄させたといわれている。その抜け穴の跡と、その横には真田幸村の像が堂々とした雰囲気で鎮座。
- 健康
- 病気治癒
豊臣時代の大坂城石垣跡(ドーンセンター)
江戸幕府によって豊臣時代の痕跡が消されているが、このドーンセンター建設時に出土した豊臣時代の三の丸の石垣が、出土したそのままの形で移築されている。豊臣時代の大坂城を観たい方には必見の場所。
山里丸
山里丸は本丸北端部の一段低くなったエリア。豊臣時代には秀吉の命を受け千利休が造営した茶室を含む閑静な風情を湛えた一角。ここはおもてなしの城として使われた豊臣時代、さらに深い仲になるために招いた茶室があった場所。
越中井
細川越中守忠興の邸跡で、越中井はその邸内にあったものと言われている。関ケ原戦の直前、忠興の出陣中、石田三成は在坂諸大名の妻子を人質にしようとした。しかし、忠興の夫人玉子(洗礼名ガラシャ)はこれに従わず、家臣に胸を突かせて自害。悲運のガラシャの人生を偲べる場所でもある
市正曲輪
「市正曲輪」の由来は、豊臣時代に賤ヶ岳七本槍の一人の片桐市正(いちのかみ)且元の屋敷があったこと。片桐且元は秀頼の守役を命ぜられ、豊臣家の重臣として重要な位置にあった。春になると梅が一面に咲き乱れる梅林が有名。
金明水井戸
太閤秀吉が在世中に掘られ、水毒を除くために、多くの黄金を水底に沈めたといわれる井戸。そのため「黄金水」 と呼ばれ、大阪城一の名水とされていた。氷のごとく冷たい水で、ものを漬けておくと味を保持できたと言われている。
太閤下水
「太閤下水」は秀吉時代に作られた下水道が、改良されながらも現在まで使われ続けているもの。近世からの下水道の形を現代まで使用しているのは、全国的にも珍しい事例。その次代に使われたことがわかっている約7kmは史跡として指定されている。
岸和田城
天正13(1585)年、羽柴秀吉は紀州根来寺討滅後、伯父小出秀政を城主とした岸和田城。秀政によって城郭整備され、天守閣もこの時に築かれた。天災による焼失で、近世以前の構造物は堀と石垣以外には残存していません。現在の天守は3層3階の模擬天守。