名古屋城石垣の刻印を見に行こう! Vol.00 はじめに
2025.01.28
2017.10.18
桶狭間の戦いの史跡で、今川義元のお墓がある
こちらは昭和12年文化庁によって国指定史跡に指定された史跡です。
今は住宅街ですが、当時は山に囲まれた場所でした。ここで今川義元や今川軍7人の戦死場所を示す「七石表」など、桶狭間の戦いについての史跡がまとまっているのがこの「桶狭間古戦場伝説地」なのです。
名鉄名古屋本線の中京競馬場駅から徒歩5分と非常にアクセスも良い場所です。
「桶狭間古戦場伝説地」のすごいところは、今川義元の墓碑を始め、たくさんの史跡がまとまっているところ。
しかもボランティアガイドさんの詰め所もあり、パンフレットも完備。
まさに豊明市の桶狭間の戦い史跡めぐりが一気に便利になる場所なのです。
この伝説地には今川軍7名が討死したことがわかる「七石表」「桶狭弔古碑」「今川義元墓碑」があります。
七石表については、とよあけ桶狭間ガイドボランティアのホームページより引用します。
七石表は、古戦場伝説地の中で一番古い史跡で、明和8年(1771)12月18日に尾張藩士 人見弥衛門・赤林孫七郎により建立された。
全部で7本あり、全てに「桶峡七石表之一」と彫られ、6本は伝説地内にあり、一号碑には、「今川総介義元戦死所」と刻まれている。二号碑は高徳院墓地内にあり「松井八郎塚云五郎八」と彫られている。
建立された場所は、宝永2年(1705)発行された『塩尻』(国立公文書館蔵)の桶狭間古戦場之図」に描かれている屋形狭間の塚の上に立てられていた。
この伝説地で一番古い史跡で、尾張藩士によって建てられたもので、一号碑に「今川総介義元戦死所」とあるということは、本当にここで義元は亡くなったということなのでしょうか。
また今川義元の墓碑についても、とよあけ桶狭間ガイドボランティアのホームページより引用します。
明治9年(1876) 有松の住人 山口正義が建立した。 碑陰記によれば、弔古碑が建てられたあと、通りかかった旅人が「義元の墓」と間違えて香華を手向けたりしていた。改めて周辺を整備して墓碑を作ったという。
この墓碑は明治時代に作られたもののようですね。また、伝説地目の前の高徳院さんには今川義元の仏式墓碑があります。
桶狭弔古碑は、今川義元の重心松井宗信の子孫で津島神社の神官・氷室豊永が建立したと言われてます。
碑文はこの戦いの状況について書いてあり、尾張藩初代藩主の徳川義直が執筆した「成功記」と内容が一致していることから、尾張藩からこの碑の建立を許可されたものとのことです。
桶狭間の戦いの史跡巡りに来たものの、どうしていいかわからないという方は、
まず桶狭間古戦場伝説地に立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
ガイドボランティアさんに案内してほしい場合の申込方法、申込書などはこちらに明記されています。当日フラリと行ってもどなたもいらっしゃらないこともあるので、まずは電話などで確認してからお出かけするのがベターです。
http://toyoake-okehazama.com/guide_v.html
住所:愛知県豊明市栄町南舘11
電話:0562-92-8317
<アクセス>
名鉄名古屋本線「中京競馬場」駅 徒歩5分
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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