続100名城を巡る 「赤木城」
2024.08.12
2024.07.30
「大徳寺」は京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の大本山。
しっとりとした雰囲気の松林に囲まれて、厳かな雰囲気の山門・仏殿・法堂・方丈・庫裡・僧堂・浴室・経蔵・鐘楼などの伽藍がある禅寺らしさを味わうことができるお寺です。
1315年(鎌倉時代末期)に大燈国師宗峰妙超禅師が開山し、開基は赤松則村です。
応仁の乱で一時は荒廃してしまいましたが、一休さんで有名な一休和尚が復興し、その後、桃山時代に、織田信長の菩提を弔うために豊臣秀吉が「大徳寺」に総見院を建立しました。
じつは、徳川家康にもゆかりのあるお寺でもあります。
ここでは、大徳寺と縁が深い豊臣秀吉にまつわる話を中心に記していきたいと思います。
現在は、茶道として沸かした湯で茶をたてる(練る、淹れる、振舞う)等の日本の伝統的な芸道とされる「茶道」ですが、もとは「茶湯(さのゆ、ちゃのゆ)」と呼ばれていました。
茶湯は、鎌倉時代から武士の間でとても人気があったそうです。
その理由は、禅寺でお茶が飲まれていたことが関係しているのだとか。
鎌倉時代の武士は、禅宗に帰依していた者が多かったため、禅寺で飲まれるお茶に興味を持っていったと考えられているそうです。
その後、武士の間で流行っていた茶湯ですが、織田信長も茶湯を好むようになりました。
このことは、ルイス・フロイス著「日本史」に記されていて
「彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩であり、目の前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることをはなはだ好んだ」
という記述が残っているそうです。
この記述による、織田信長は「器」を好んだことがわかりますね。
また「目の前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることをはなはだ好んだ」という記述から身分を気にしない人柄もうかがえます。
織田信長は、茶湯も、自分の身分を誇示するためのものではなく、ふるまいとしたり、器を褒美にするなどとしていたようです。
豊臣秀吉は、茶湯を権力の象徴としていたことは、北野大茶湯からもうかがえますね。
会自体も、器も、豪華絢爛なものだったことでしょう。
茶湯を発展させた人物の一人として挙げられるのが「千利休」ですが、千利休は、織田信長とも、豊臣秀吉とも両者に関わりがありました。
特に豊臣秀吉と親しくしていた千利休は、1589年に「大徳寺」の三門(金毛閣)を二階建に増築しました。
「大徳寺」は、豊臣秀吉と縁が深い寺ですので、当然豊臣秀吉が三門をくぐることになります。
その三門には、二階に千利休の木像が建てられたため、三門をくぐる際に、頭の上に、千利休の足裏がある、つまり頭を踏まれる形になることが豊臣秀吉の気に障り、千利休は聚楽第で切腹をさせられました。
この話はとても有名ですね。
「大徳寺」には勅使門という門があります。
この門は1640年に御所の陽明門を後水尾天皇より賜ったものです。
とても重厚な門ですね。格調の高さを感じます。
御所というのは、天皇が住まう場所(現在は皇居)ですが、下賜したのは後水尾天皇。
徳川家康とゆかりのある天皇です。
後水尾天皇の皇后は、徳川秀忠の五女、徳川和子(とくがわまさこ)様だからです。
徳川家康にとっては、孫にあたりますね。
和子様の入内は、もちろん徳川家康による政略結婚でした。
京都市北区紫野にある大徳寺。信長、秀吉、家康、三英傑にゆかりのあるお寺は、なかなか出会うことができません。
ぜひお近くに行った際は立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
お出かけは、春と秋の特別公開時期がおすすめです。
京都府京都市北区紫野大徳寺町5
JR京都駅から
101系統、205系統、206系統、 大徳寺下車
拝観時間
9:00~16:00
拝観料
無料
rico
教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。
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