武将愛 SAMURAI HEART

100名城を巡る 「赤穂城」

2024.07.31

この連載は、公益財団法人日本城郭協会が定めた「日本100名城」の中で、
筆者が訪れたことがあるお城を紹介してゆくものである。
なお、城郭名は「日本100名城」の表記に合わせ記してゆく。

『忠臣蔵』で知られる、浅野内匠頭の居城だった「赤穂城」

今回の史跡は、日本100名城の60番、兵庫県赤穂市の「赤穂城」。

1648年(慶安元年)、浅野内匠頭(たくみのかみ)長直が築城開始。
当時は、1615年(元和元年)に出された「武家諸法度」により
新たな城を築くことが禁止されていたという状況でしたが、
そのような中で築城を許可された珍しいお城といわれております。

赤穂城築城については、甲州流軍学創始者である小幡景憲の弟子だった
浅野家重臣の近藤正純が総指揮をとり、縄張り(設計)と普請(建築工事)を担当。
後に、同じく小幡景憲の弟子で「山鹿流兵法」を確立していた
山鹿素行(やまがそこう)の助言が加わり、1661年(寛文元年)に完成しました。

城壁の折り曲げをふんだんに取り入れた西洋式の縄張りを導入し、
往時は西側と南側は海、東側は川という天然の要害で囲むというつくり。
五層の天守を建築するという計画は早いうちに断念したようですが、
本丸には今でも立派な天守台が残っております。

1872年(明治5年)の廃城令により建物は破却されますが、
1955年(昭和30年)に大手隅櫓、大手門などが再建。
以後、様々な整備を重ねながら、現在は「赤穂城跡公園」として親しまれております。

 

「赤穂城」の見学ルート①

・赤穂城跡公園の3つある駐車場の内、東側駐車場から見学開始
まず見えるのは「清水門跡」、おしゃれな建物は赤穂市立歴史博物館です

・清水門跡の外堀を挟んだ南側には「二の丸東北隅櫓台」が

・現在、武家屋敷公園となっている三の丸の案内図も確認しましょう

・武家屋敷公園を西→南と進み、「二の丸門跡」方面へ

・こちらは、復元された二の丸門跡付近の石垣
明治に起こった大水害の際、資材として持ち出されたものを復元したそうです

・二の丸門跡を南へ進み、「大石頼母助屋敷門」から二の丸庭園へ

・「二の丸庭園」、入口付近からの眺めと南西端の折れ曲がった土塀

・2009年に復元された「西仕切門」を通過し、振り返って一枚

・本丸南西の隅部は、櫓台ではなく土塀で囲まれていた「東横矢枡形」
写真右奥には緊急時に出口となる仕組みだった「刎橋門跡」も見られます

・こちらは、外観復元の「米蔵跡」、現在は休憩所として活躍中

・米蔵跡のすぐ側にある、船着き場として利用されていた「水手門跡」
物資が運び込まれた際は、米蔵へすぐ運び込めるよう近くにつくったのだとか

 

「赤穂城」で起こった3つの赤穂事件

赤穂といえば、真っ先に思い浮かぶのは『忠臣蔵』ではないでしょうか。

1701年(元禄14年)、赤穂藩藩主だった浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)が
江戸城内で吉良上野介義央(こうずけのすけよしひさ)を切りつけるという事件が勃発。
これにより浅野内匠頭は切腹を命じられ御家断絶、赤穂城は幕府へ引き渡すことに。
2年後、主君の敵を討つため集結した赤穂浪士たちが、雪の残る日に吉良邸へ討ち入り。
見事吉良上野介を討ち果たす…という物語を毎年のように見ていた覚えがあります。

この一連の出来事を称して「赤穂事件」と一般にいわれておりますが、
実は「赤穂事件」といわれる騒動は他にも2つ、全部で3つあります。

最初の赤穂事件は、「正保赤穂事件」。
1645年(正保2年)、赤穂藩2代藩主だった池田輝興(てるおき)が突如として乱心、
正室や侍女を手にかけるという謎が多く残る事件がおこりました。

二つ目は、『忠臣蔵』でおなじみ「(元禄)赤穂事件」。
こちらも、浅野内匠頭がなぜ切りかかったか、という大きな謎があり、
・吉良上野介との「遺恨」や「怨恨」があったという説
・任された饗応役が嫌で「ストレス」がたまり行動に至ったという説
など様々な説があるようですが、真相はいまだにわかっておりません。
動機はともかく、この事件により浅野家は断絶の憂き目にあいます。

そして三つめは「文久赤穂事件」。
1862年(文久2年)、尊王攘夷(反幕府の思想)を掲げる西川升吉らが
家老だった森主税を赤穂城の門前で、村上真輔を屋敷で襲撃したという事件です。

次代は違えど、全て刃傷沙汰を発端とした事件。
『忠臣蔵』のイメージが根強いですが、ほかの赤穂事件もなかなか印象深いですね。

広大な敷地の江戸城跡 本丸御殿はどうなっていたの?

 

「赤穂城」の見学ルート②

・水手門跡を通り、「南沖櫓台跡」と「潮見櫓台跡」の石垣を見る

・二の丸へ戻り東進、目前には「刎橋跡」と本丸石垣

・左手に本丸石垣を見ながら東→北へさらに進み、「厩口門」から本丸内へ
おまけで、厩口門横のきれいな矢穴が残る階段

・本丸南東側には、五層の天守を建てる計画があったという「天守台石垣」
上まで昇れば、御殿跡や庭園など本丸が一望できます

・先ほど二の丸側から見た「刎橋門跡」を本丸側から見た図

・本丸を北側へ移動し、「本丸門」から再び二の丸北側へ

・二の丸を北西に進み、搦手にあたる「塩屋門跡」へ
公園西駐車場の近くにある「三の丸西隅櫓台」もお忘れなく

・最後は、三の丸の北側にある「三の丸大手門」
立派な石垣がある「桝形」は、明治時代に形状が改変されているそうな

 


大手門跡付近には大石内蔵助など四十七義士を祀る「赤穂大石神社」、
清水門跡付近には赤穂浪士や赤穂の塩に関する歴史の展示が豊富な
「赤穂市立歴史博物館」があるため、あわせてチェックしましょう。


「赤穂大石神社」の神門

今回の史跡「赤穂城」

場所:兵庫県赤穂市上仮屋1424−1

電車でのアクセス:JR「播州赤穂駅」下車後、南方向へ徒歩約20分
車等でのアクセス:山陽自動車道「赤穂IC」から南東方向へ約10分

地域カテゴリ

新井 良典

愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。

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