武将愛 SAMURAI HEART

足跡を巡る 豊臣秀吉の巻:其の八(終)

2021.08.28

「足跡を巡る」とは

戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。

太閤秀吉

1591年に入り、弟・秀長と嫡男・鶴松を相次いで失った秀吉。
近江八幡城から清洲城へ居城を移していた養子・秀次に関白職を譲り、自身は太閤に。
同年に千利休に切腹を命じるなど、秀吉を取り巻く環境は目まぐるしく変わってゆきます。


そして、後継者を定めた秀吉の目は海外へ。
肥後に大規模な名護屋城を築き、明を目指し朝鮮半島へ攻め入ります。


16万もの兵を動員し当初は圧倒するも、次第に兵站が滞るなどして膠着状態に。
1593年に入ると、参戦した明との間で講和交渉が開始されます。

近江八幡城跡
所在地:滋賀県近江八幡市宮内町19−9

名護屋城跡
所在地:佐賀県唐津市鎮西町名護屋4209

秀次切腹事件

そんな最中、秀吉の側室だった淀殿がお拾、のちの秀頼を出産。
1595年には、秀吉は突如として秀次に謀反の疑いありとして、蟄居ののち切腹を命じます。
発端は秀頼誕生による不仲説、秀次の悪行説など諸説あり、その真相やいかに。

秀次切腹の波紋は、秀次の家老だった有子山城主・前野長康が切腹になった他、
同じく家老の三好吉房が流罪、秀次の親族が処刑されるなど広範囲に及びました。

さらには、秀次の側室候補として京にいた駒姫が処刑されたことにとどまらず、
駒姫の父・山形城主の最上義光、秀次と懇意だった細川忠興らにも疑いの目が向けられます。


この一連の事件は、少なかった秀吉の親族を更に減らしてしまっただけでなく、
間に入り色々ととりなした徳川家康の評判を上げる結果となりました。

有子山城跡(出石城跡)
所在地:兵庫県豊岡市出石町内町28

山形城跡
所在地:山形県山形市霞城町1

秀吉薨去

明と続けていた講和交渉は、様々な思惑が絡み合った末にあえなく決裂。
1597年になると、秀吉は再度出兵を命じます。

1598年、醍醐寺にて大規模な花見を催した後に秀吉は病に伏せるようになり、
豊臣家と秀頼の将来を心配したまま、同年に伏見城にてこの世を去ります。

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな なにわのことも 夢のまた夢」
この辞世の句は、天下人となり燃え尽きた心情をよくあらわしたものといえるでしょう。

伏見桃山城跡
所在地:京都府京都市伏見区桃山町大蔵45

おまけ

其の一は、秀吉が愛用していたという有馬温泉にある像。
離れた位置にある秀吉像とねね像、視線が合う配置になっているとかいないとか。

其の二は、悲劇の関白・豊臣秀次の墓がある瑞泉寺。
秀頼の誕生が彼に与えた心理的影響は、如何ほどだったのでしょうか。

其の三は、全国にある豊国神社の中から、京都府東山区にあるこちらを。
秀吉が大仏を造立したという方広寺のお隣りにあります。

最後は、秀吉最後の城と言われる京都新城があった京都御苑。
2020年に石垣の一部が京都仙洞御所から出土し、話題となりましたね。

有馬温泉
所在地:兵庫県神戸市北区有馬町

瑞泉寺
所在地:京都府京都市中京区石屋町114−1

豊国神社
所在地:京都府京都市東山区茶屋町530

京都御苑
所在地:京都府京都市上京区京都御苑2番地

新井 良典

愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。マイ甲冑作成教室や甲冑試着体験を行う「あいち手作り甲冑サポート塾」に所属し、現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催。

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