100名城を巡る「彦根城」後編
2025.01.12
2022.04.25
〜過去の取材記事の投稿となります〜
1598年8月18日。
「つゆとおち つゆときへにし
わがみかな なにはのことも ゆめのまたゆめ」
と辞世の句を詠んだ豊臣秀吉。
親鸞聖人の広めた浄土真宗は、当時の世の中に阿弥陀信仰として広がり、信心を大切にしていた豊臣秀吉は、死後は極楽浄土へと迎えられ、自らも神となるつもりでいたといわれています。
しかし念願の大仏殿も完成することができませんでした。
京都の街を再建しようとしていた豊臣秀吉の夢は、計画半ばで断念し、その痕跡は今もなお、残ったままとなっています。
いつの時代も政権交代は、虚しさを残すものだなあと感じます。
哀愁が漂う場所
戦国時代の京都の史跡の中で、豊臣秀吉に関するものは、なんとなく哀愁が漂っている感じがするのは、私だけでしょうか。
樹下社も、静かで、人の訪れを感じさせないひっそりとした空気を纏っています。
こちらの後ろに映っている山は、阿弥陀ケ峰です。豊国山とも呼ばれます。
阿弥陀ケ峰のふもとにあるこの山門をくぐると、長い長い石段。
石段を上るとまっすぐ先に豊国廟があります。
もうずいぶんと前、1996年のNHK大河ドラマに『秀吉』というドラマが放送されました。
そのオープニングでは、この『豊国廟』へと続く階段を日吉(秀吉)役だった竹中直人さんが、一気に駆け登っている場面が登場しています。
槙本稲荷神社
豊国廟に向かう際に、境内左側には槙本稲荷神社という小さな神社がみえます。
その唐門の前には、ひょうたん型の絵馬がたくさん下がっています。
そういえば、豊国神社内には、あちらこちらに豊臣秀吉ゆかりの『ひょうたん』をかたどったものがありました。
京都の豊国神社
これは、阿弥陀信仰の極楽浄土に関係するもので、人は太陽の昇る東に生まれて、西で没することを繰り返していることに通じているそうです。
東の豊国廟は秀吉の『没』と『生』を意味するものであり、それは『阿弥陀』(神)に通づるものであったとも考えられます。
しかし徳川家康は、こういった豊臣秀吉の想いを打ち切るかのように、西本願寺からまっすぐに豊国廟へと向かうことができないように道を整備したのではないかとも言われているそうです。
なぜなら、西本願寺からまっすぐに豊国廟へはいけないようになっているからです。
京都府京都市東山区今熊野阿弥陀ケ峯町阿弥陀ヶ峰
JR京都駅から市バス100系統銀閣寺行き 東山七条下車徒歩20分
見学時間:8;30~17:00 無休
拝山料:100円
rico
教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。
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