武将愛 SAMURAI HEART

どこにいた家康 Vol.46 大坂城

2023.12.02

この連載は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』で舞台となった地を
後追い、あるいは先読みしながらご紹介していくものである。
なお、タイトルにちなんで、記載は年齢問わず「家康」で統一する。

豊臣氏滅亡後に徳川秀忠が築いた「大坂城」

今回の史跡は、大坂の陣の舞台となった「大坂城」です。

1583年に羽柴(豊臣)秀吉が大坂本願寺跡に築城を開始。
1585年に天守が完成したといわれており、本丸・二の丸等を次々と整備、
城下町を丸ごと囲む「惣構」の工事を1594年に開始するなど、
1598年に豊臣秀吉が亡くなるまで四期にわたり拡張が行われました。

その後、徳川家康と豊臣秀頼の争いとなった大坂夏の陣後に大坂城天守は全焼、
豊臣家滅亡後の1620年に徳川秀忠が天下普請で大坂城の再興を開始。
この時、徳川秀忠は豊臣色を払しょくするため豊臣秀吉が築いた大坂城を埋め、
その上から全く別の城を築いたといわれております。

現在の3代目天守は豊臣氏時代の天守を再現したもの

現在ある天守は、1931年に市民からの寄付などにより再建された3代目の天守。
徳川氏時代の大坂城天守台の上に豊臣氏時代の天守を再現したものであり、
1995年から1997年にかけて行われた「平成の大改修」を経て、
復興再建から90年以上経った現在も「大阪城天守閣」として親しまれております。

大阪城をご紹介した記事が盛り沢山!一覧はこちら>

 

「大坂城」の見学ルート①

・4つある入口の内のひとつ、西側の「大手門」から進入してゆきましょう

・大手門の左手には、「千貫櫓」と「大手口多門櫓」があります

・大手口から東へ進み、「太鼓櫓跡」でもある「南仕切門跡」へ

・南仕切門の少し南側には、「石山本願寺推定地の碑」が
さらに奥に行けば、現存建築物の六番櫓も見られます

・南仕切門を東方向へ進み、本丸へ至る「桜門」へ
天守を門越しに覗き見る、定番の撮影スポットです

・桜門をくぐると、目の前には巨大な「蛸石」が
城内には数々の巨石が門跡に使われておりますが、その中でも最大のものです

・本丸へ到着、まずは桜門を少し進んだあたりから「天守」を撮影

・一枚目は本丸南西にある本丸日本庭園越しの「天守」、
二枚目は本丸西の数寄屋丸櫓跡あたりからの「天守」と隠し曲輪

・本丸を北へ進み、姫門跡を抜けてすぐ左に行くと「隠し曲輪」があります
見事な石垣と刻印石が見られますので、こちらもお忘れなく

大阪城公園の外周や石垣を中心にご紹介した記事はこちら

「大阪城」流。石垣の楽しみ方とは
(過去記事のため情報が古い可能性がございます。)

 

和議の条件となった「大坂城」の堀をめぐる謀略はあった?

徳川家康は、茶臼山に陣取り大坂城を20万ともいわれる大軍で包囲。
しかし、難攻不落の大坂城と真田信繁らの奮闘の前に苦戦を強いられると、
鉄砲や大砲で攻めつつひとまず和議することを模索し始めます。

和議の条件をめぐっての交渉は茶々の反対などもあり難航しますが、
本丸へ大砲が撃ち込まれたことにより茶々が和議に対し軟化。
大坂冬の陣開戦から2か月ほどで両家は一旦矛を収めることとなりました。

この時、和議の条件として豊臣方に課された条件のひとつが、
「本丸を残し二の丸・三の丸を破壊、惣構の南堀・西堀・東堀を埋めること」。
埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀が徳川家という取り決めで決着。
この条件を受け入れたものの、時間を稼ぎたい豊臣方はゆっくりと作業をし、
逆に徳川方はあっという間に外堀・三之丸の堀を埋め二の丸の堀まで埋め始めます。
「約束が違う!」という豊臣方に対し、徳川方はのらりくらりとかわしつつ、
「惣=全て、二の丸も含まれると勘違いしていました!」と弁明したとか。

三河一向一揆後の「元通り=元の何も建っていない状態」とした時と同じく、
徳川家康がタヌキ親父ぶりを発揮して卑劣な手を使った、というお話ではありますが、
そもそもこの和議条件やお互いの作業持ち分については定かではありません。

お話通り徳川方の謀略だったのか、豊臣方も合意の上堀を埋め立てたのか。
真偽はともかく、大坂城最大の防御だった惣構の堀どころか二の丸の堀まで失い、
大坂夏の陣では野戦の末攻め込まれ落城、結果として豊臣家は滅亡してしまいました。

 

「大坂城」の見学ルート②

・隠し曲輪から戻り、東へ進むとあるのが「山里丸跡」
ここには、「豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地碑」があります

・山里丸跡の北にある山里口門跡からさらに北へ
「極楽橋」を渡り、振り返って天守を一枚

・南東へ進み、北東側の入口である「青屋門」を撮影
続いて青屋門から南へ進み、日本一と言われる「高石垣」を堪能しましょう

・内堀を右手に見ながら南→東方向へ進み、東南側の入口「玉造門跡」から外へ

・玉造口から見えるのが「一番櫓」、この南外濠の石垣には刻印石が多数あります

・南外濠を右手に見ながら西へ、遠くに見えるは「六番櫓」
南東側からも良いですが、西側から見るのが特におススメです

 

次回どうなる、『どうする家康』

久々に徳川家康と豊臣秀頼が対面した「二条城会見」。
強かに成長し徳川家康を翻弄する豊臣秀頼の姿が印象的でしたね。
「国家安康 君臣豊楽」に込めた意図を巡り勃発した方広寺鐘名事件も、
徳川氏側からのいいがかりではなく、豊臣氏側からの仕掛けとなるもよう。
このあたりの展開も、どのようになされるか気になるところです。

徳川家康にとっても最後の戦いとなる大坂の陣もいよいよ開始。
冬の陣では、真田信繁の「真田丸」をはじめとした大坂城包囲戦の描き方、
和議交渉とその後の堀の埋め立てに関する解釈などに注目したいと思います。


大坂冬の陣で徳川家康が本陣とした「茶臼山」

今回の史跡「大坂城」

大阪城(大阪城公園)
場所:大阪府大阪市中央区大阪城1−1

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新井 良典

愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。

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