愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2022.04.30
戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。
関ヶ原の戦いの後、家康は1603年に任命され征夷大将軍に。
1605年には将軍職を秀忠に譲ると、駿府にうつり大御所として実権を握ります。
この一連の動きに加え、1610年になると天下普請により名古屋城を築城開始。
いまだ健在である豊臣家をにらみながら、着々と政権を安定させてゆきます。
1611年、豊臣秀頼が上洛し二条城で家康との会見が実現。
様々な思惑が入り乱れたこの会見の後、両者は対決姿勢を強めていくことに。
名古屋城
所在地:愛知県名古屋市中区本丸1−1
二条城
所在地:京都府京都市中京区二条城町541
そして1614年。方広寺の鐘銘が不敬である、と徳川方が主張したことを機に
両者ともに臨戦態勢に入り、家康はついに大坂城攻めを敢行します。
まず家康は茶臼山に陣取り、総勢20万ともいわれる大軍で大坂城を包囲。
木津川口、鴫野・今福の戦いや真田丸の戦いなどの局地戦が繰り広げられましたが、
その後徳川方が有利な条件で一旦和睦する形に。写真は、今福の古戦場跡。
おまけで、徳川方として佐竹義宣が布陣した今福の若宮八幡宮と、
同じく徳川方の上杉景勝が布陣した鴫野の八剱神社の写真。
方広寺
所在地:京都府京都市東山区茶屋町527−2
茶臼山(天王寺公園)
所在地:大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1
大坂冬の陣 今福・蒲生の戦い跡碑
所在地:大阪府大阪市城東区今福西1丁目14−10
若宮八幡宮(佐竹義宣陣跡)
所在地:大阪府大阪市城東区蒲生4丁目3−10
八剱神社(上杉景勝陣跡)
所在地:大阪府大阪市城東区鴫野東3丁目31−8
堀の埋め立てなどの和睦条件を飲んだ豊臣方でしたが、あれよあれよと大坂城は本丸のみに。
家康は裸城同然となったこの機を見逃さず、再度大坂城への攻撃を仕掛けます。
豊臣方は野戦で勝負に出ますが、道明寺の戦いや八尾・若江の戦いで敗走。
真田信繁が天王寺・岡山の戦いで一矢報いるも、兵力の差は埋められず。
秀頼は母・淀殿とともに大坂城で自害し、ここに大坂の陣は幕を閉じました。
上の写真は、天王寺の戦いで豊臣方の後藤基次が布陣した小松山、
下の写真は、同じく天王寺の戦いで戦場となった玉手山。
小松山古戦場跡
所在地:大阪府柏原市玉手町25−73
玉手山公園
所在地:大阪府柏原市玉手町7−1
法整備も終え「徳川の世」を盤石にした家康は、1616年に病で倒れます。
駿府城に戻り3ヶ月ほど療養するも、そのまま帰らぬ人に。
遺命に従い、家康は久能山へ葬られました。享年75歳。
辞世の句は「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
やり遂げた、という晴れやかな気持ちで旅立った心境が伺えます。
久能山東照宮
所在地:静岡県静岡市駿河区根古屋390
其の一は、豊臣時代のものとは異なり、徳川時代の遺構である大坂城。
大坂の陣は、多くの「たられば」を語り合いたくなる戦いですね。
其の二は、家康が鷹狩の帰りに鯛の天ぷらを食したといわれる田中城。
死因は天ぷらによる食中毒ではなく、胃がんだったといわれております。
大阪城
所在地:大阪府大阪市中央区大阪城1番1号
田中城跡
所在地:静岡県藤枝市田中1丁目7−20
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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