武将愛 SAMURAI HEART

足跡を巡る 徳川家康の巻:其の八(終)

2022.04.30

「足跡を巡る」とは

戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。

江戸幕府の開府

関ヶ原の戦いの後、家康は1603年に任命され征夷大将軍に。
1605年には将軍職を秀忠に譲ると、駿府にうつり大御所として実権を握ります。

この一連の動きに加え、1610年になると天下普請により名古屋城を築城開始。
いまだ健在である豊臣家をにらみながら、着々と政権を安定させてゆきます。


1611年、豊臣秀頼が上洛し二条城で家康との会見が実現。
様々な思惑が入り乱れたこの会見の後、両者は対決姿勢を強めていくことに。


名古屋城
所在地:愛知県名古屋市中区本丸1−1

二条城
所在地:京都府京都市中京区二条城町541

大坂冬の陣

そして1614年。方広寺の鐘銘が不敬である、と徳川方が主張したことを機に
両者ともに臨戦態勢に入り、家康はついに大坂城攻めを敢行します。


まず家康は茶臼山に陣取り、総勢20万ともいわれる大軍で大坂城を包囲。


木津川口、鴫野・今福の戦いや真田丸の戦いなどの局地戦が繰り広げられましたが、
その後徳川方が有利な条件で一旦和睦する形に。写真は、今福の古戦場跡。

おまけで、徳川方として佐竹義宣が布陣した今福の若宮八幡宮と、
同じく徳川方の上杉景勝が布陣した鴫野の八剱神社の写真。

方広寺
所在地:京都府京都市東山区茶屋町527−2

茶臼山(天王寺公園)
所在地:大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1

大坂冬の陣 今福・蒲生の戦い跡碑
所在地:大阪府大阪市城東区今福西1丁目14−10

若宮八幡宮(佐竹義宣陣跡)
所在地:大阪府大阪市城東区蒲生4丁目3−10

八剱神社(上杉景勝陣跡)
所在地:大阪府大阪市城東区鴫野東3丁目31−8

大坂夏の陣

堀の埋め立てなどの和睦条件を飲んだ豊臣方でしたが、あれよあれよと大坂城は本丸のみに。
家康は裸城同然となったこの機を見逃さず、再度大坂城への攻撃を仕掛けます。

豊臣方は野戦で勝負に出ますが、道明寺の戦いや八尾・若江の戦いで敗走。
真田信繁が天王寺・岡山の戦いで一矢報いるも、兵力の差は埋められず。
秀頼は母・淀殿とともに大坂城で自害し、ここに大坂の陣は幕を閉じました。

上の写真は、天王寺の戦いで豊臣方の後藤基次が布陣した小松山、
下の写真は、同じく天王寺の戦いで戦場となった玉手山。

小松山古戦場跡
所在地:大阪府柏原市玉手町25−73

玉手山公園
所在地:大阪府柏原市玉手町7−1

晩年の家康

法整備も終え「徳川の世」を盤石にした家康は、1616年に病で倒れます。
駿府城に戻り3ヶ月ほど療養するも、そのまま帰らぬ人に。

遺命に従い、家康は久能山へ葬られました。享年75歳。


辞世の句は「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」
やり遂げた、という晴れやかな気持ちで旅立った心境が伺えます。

久能山東照宮
所在地:静岡県静岡市駿河区根古屋390

おまけ

其の一は、豊臣時代のものとは異なり、徳川時代の遺構である大坂城。
大坂の陣は、多くの「たられば」を語り合いたくなる戦いですね。


其の二は、家康が鷹狩の帰りに鯛の天ぷらを食したといわれる田中城。
死因は天ぷらによる食中毒ではなく、胃がんだったといわれております。


大阪城
所在地:大阪府大阪市中央区大阪城1番1号

田中城跡
所在地:静岡県藤枝市田中1丁目7−20

武将カテゴリ

地域カテゴリ

新井 良典

愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。

この記事へのコメントや情報提供をお待ちしています

ログイン してコメントを投稿して下さい。
ユーザー登録がお済みでない方は 登録画面 にて登録後、コメントを投稿して下さい。

愛知県の記事

人気記事

PR

武将名や合戦場所などで検索

地域カテゴリ一覧

徳川家康の記事

この記事の後によく読まれているおすすめ記事

バックナンバー記事

次の10件を見る

戦国武将の生涯をたどる
  • 信長公の生涯をたどる

    天下布武その生涯をめぐる
    <勝幡〜清洲〜岐阜〜安土>

  • 秀吉公の生涯をたどる

    日本一出世 その生涯をめぐる
    <名古屋〜長浜〜大阪〜京都>

    豊臣秀吉年表へ
  • 家康公の生涯をたどる

    天下泰平までの道のりをめぐる
    <岡崎〜浜松〜江戸〜駿府>

    徳川家康年表へ
  • 加藤清正年表へ