武将愛 SAMURAI HEART

この記事は2022年12月11日記事のため内容が古い可能性があります。

足跡を巡る 伊達政宗の巻:後編

2022.12.11

「足跡を巡る」とは

戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。

「足跡を巡る 伊達政宗の巻:前編」はこちら

伊達政宗の秀次事件と慶長出羽合戦

1595年、伊達政宗と親しかった豊臣秀次が謀反の疑いで切腹となる大事件が勃発。
伊達政宗も関与を疑われますが、家臣の直訴や徳川家康の取り成しで難を逃れました。

豊臣秀吉死後、伊達政宗の長女・五郎八姫と徳川家康の六男・松平忠輝の婚約が成立。
1600年の上杉討伐では徳川家康に従い、上杉方だった白石城を攻め落とします。

「白石城跡」を端々までご紹介!『復元天守の巻:白石城』の記事はこちら



上杉氏と最上氏による慶長出羽合戦が起きると、伊達政宗は最上義光の要請に応じ長谷堂城へ派兵。
上杉氏が撤退する機をみて勢力拡大を計るも、ここで大きな成果は出せず。

「北の関ヶ原」ともいわれる舞台になった「長谷堂城跡」!おまけでご紹介している記事はこちら



白石城跡
所在地:宮城県白石市益岡町1

長谷堂城跡
所在地:山形県山形市長谷堂

仙台城と高田城

1601年、伊達政宗は実質的な天下人となった徳川家康から許可を得て居城を移すことに。
岩出城から移った地を仙台城と改名、新たに築城し城下町の整備も行いました。


1612年に松平忠輝の居城として高田城築城が始まると、伊達政宗はこれを担当。
翌年には海外へ使節を派遣(慶長遣欧使節)するなど、精力的に活動してゆきます。


仙台城跡
所在地:宮城県仙台市青葉区川内1

高田城跡
所在地:新潟県上越市本城町6

伊達政宗、大坂の陣から最期まで

1614年に始まった大坂の陣にも参戦し、その功として伊予宇和島の地を拝領。
翌年の夏の陣では小松山などで後藤基次らと戦いを繰り広げました。


太平の世となってからは治水・農業・文化などに力を入れて領国経営に従事。
自身も料理などを楽しみつつ、将軍家へ忠勤し信頼を得ていた伊達政宗は1636年、帰らぬ人に。
享年70歳。辞世の句は「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」

小松山古戦場跡
所在地:大阪府柏原市玉手町25−73

玉手山公園
所在地:大阪府柏原市玉手町7−1

 

<「大阪の陣」の関連記事はこちら>

安藤正次墓所と大坂の陣の舞台「平野」
酒封じの頼みの綱に!大坂の陣、お酒で失敗した本多忠朝の墓

 

おまけ

一つ目は、伊達政宗の右腕として活躍した片倉景綱の菩提寺・傑山寺。
小田原へ行くか否か、迷った伊達政宗を説得するなど片倉景綱の存在は大きなものでした。


二つ目は、伊達政宗の長男(側室の子)・伊達秀宗が初代藩主として入った宇和島城。
父子の関係は良好ではありませんでしたが、1620年のお家騒動後に話し合い和解したそうです。


「宇和島城」の記事はこちら

傑山寺
所在地:宮城県白石市南町2丁目7−20

宇和島城
所在地:愛媛県宇和島市丸之内

 

武将の生涯を写真で辿る!「足跡を巡る」その他のシリーズはこちらをクリック

新井 良典

愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。

この記事へのコメントや情報提供をお待ちしています

ログイン してコメントを投稿して下さい。
ユーザー登録がお済みでない方は 登録画面 にて登録後、コメントを投稿して下さい。

大阪府の記事

人気記事

PR

武将名や合戦場所などで検索

地域カテゴリ一覧

この記事の後によく読まれているおすすめ記事

バックナンバー記事

次の10件を見る

戦国武将の生涯をたどる
  • 信長公の生涯をたどる

    天下布武その生涯をめぐる
    <勝幡〜清洲〜岐阜〜安土>

  • 秀吉公の生涯をたどる

    日本一出世 その生涯をめぐる
    <名古屋〜長浜〜大阪〜京都>

    豊臣秀吉年表へ
  • 家康公の生涯をたどる

    天下泰平までの道のりをめぐる
    <岡崎〜浜松〜江戸〜駿府>

    徳川家康年表へ
  • 加藤清正年表へ