どこにいた家康 Vol.43 佐和山城
2023.11.10
2022.03.27
戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。
江戸入りした後の徳川家康は、1591年に豊臣秀次らとともに奥州仕置に赴き活躍。
翌年の朝鮮出兵では名護屋城に留まり、にらみをきかせる役割を果たします。
1595年に秀次事件が起こると、徳川家康はすぐさま上洛。事件に連座の恐れがあった
細川家・最上家ら有力大名と秀吉との間を取り成すなど、事件の沈静化に大きく貢献。
1596年には内大臣に任じられ、これ以後「内府」と呼ばれるように。
名護屋城跡
所在地:佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931−3
1598年に豊臣秀吉が病没すると、徳川家康は禁止されていた大名家同士の婚姻を行い、
前田利家・石田三成らの反感をかわしながら着々と地位固めに入ります。
その後前田利家も没すると、武断派と文治派の対立に歯止めがかからない状態に。
徳川家康はこの隙に加賀征伐を企て、金沢城に帰っていた前田利長にプレッシャーをかけます。
前田家は、利長の母・芳春院が人質となるなどの条件で戦をなんとか回避。
これにより徳川家康は、前田家をほぼ支配下に置くことに成功します。
こちらは、丹羽長重の居城・小松城。長重は、徳川家康から前田家の監視を任されていたとか。
金沢城跡
所在地:石川県金沢市丸の内1−1
小松城跡
所在地:石川県小松市丸の内町
徳川家康の次の狙いは上杉家。謀反の疑いありとして、今度は会津討伐に向かいます。
これを好機とみて動き出したのが、佐和山城で蟄居していた石田三成。
三成挙兵、伏見城落城という報をうけた徳川家康は、石田三成討ちのため反転を決意。
江戸から様子を見つつ大垣方面へ移動し、決戦の地・関ヶ原まで歩を進めます。
そして迎えた大一番。西軍東軍、様々な思惑が入り乱れた激戦は、
松尾山城の小早川秀秋らが大谷吉継隊に襲いかかることで形勢が東軍へ傾くことに。
これを好機と見た徳川家康は、石田三成の本陣がある笹尾山付近へ移動し勝利を手繰り寄せます。
その後島津の急襲こそあったものの、「天下分け目の戦い」は、徳川家康率いる東軍が勝利。
豊臣家の切り崩しにも成功し、天下人の座はいよいよ徳川家康のすぐ側までやってきました。
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佐和山城跡
所在地:滋賀県彦根市古沢町
徳川家康最初陣跡
所在地:岐阜県不破郡関ケ原町野上1424−1
松尾山城跡
所在地:岐阜県不破郡関ケ原町山中
石田三成陣跡
所在地:岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原4008
徳川家康最後陣跡
所在地:岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原959−2
其の一は、上杉家謀反の疑いをかけられる原因となったという神指城跡。
この疑いに対し、直江兼続が返したのが「直江状」だと言われております。
其の二は、「北の関ヶ原」ともいわれる戦いの舞台になった長谷堂城跡。
東西別れての戦いは、関ヶ原だけでなく日本各地で行われておりました。
神指城跡
所在地:福島県会津若松市神指町本丸
長谷堂城跡
所在地:山形県山形市長谷堂
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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