100名城を巡る 甲府城
2024.10.29
2024.04.01
趣のある清々しいその寺は、かつては衰退し、荒れ果てたお寺となっていた時期がありました。
寂れてしまったそのお寺を、見事に再建させたのは、徳川家康の側室であったお万の方。
静岡県静岡市葵区にある「蓮永寺」は、日蓮宗を篤く信仰していたお万の方の願いによって、見事に復興され、現在にいたったお寺です。
「蓮永寺」の復興には、お万の方と徳川家康との間に、このような出来事があったといわれています。
1608年、江戸城で、浄土宗と日蓮宗との宗論が行われました。
宗論とは、仏教の宗派同士で行われる、宗義上の論争のようなものです。
その際、蓮宗は敗者となりました。
敗者の蓮宗に対して徳川家康は、日蓮宗の本山寺院に対して誓状の提出をせまりました。
しかし日遠が、誓状の提出を拒んだそうです。
日遠(にちおん)は、お万の方が拠り所としていた、日蓮宗の僧侶です。
徳川家康は、日遠を謀反者としました。
徳川家康は、日遠を安倍川河原で磔刑に処そうとしましたが、「お万の方」が嘆願したため、日遠は刑を執行されることがありませんでした。
日遠の罰せられるなら、自分も共にとまで徳川家康に迫るほど、お万の方の信仰はとても篤いものだったからです。
お万の方の墓所は、山梨県身延にある大野山本遠寺にあります。
この本遠寺は「お万さまの寺」と呼ばれている日蓮宗のお寺です。
〈信仰篤い「お万の方」が眠る廟所はこちら〉
そして蓮永寺には、お万の方の供養塔があります。
徳川家康とお万の方が結婚したのは、徳川家康が61歳、お万の方がまだ20代の頃でした。
「お万の方」は、27歳で徳川頼宣、28歳で徳川頼房と、年子で二人の男の子を出産しました。
徳川家康は、命取りとなった病気を発病した田中城への鷹狩りにも、徳川頼宣、徳川頼房の二人を連れて行くほどかわいがっていたといわれ、のち、この二人は、御三家の紀伊と水戸を継ぐこととなりました。
〈徳川家康の亡くなった原因は「田中城」で食した天ぷらだった?〉
「お万の方」も、この二人を大切に育てていました。
自分のために使うお金を節約し、頼宣のために家臣を養ったという話も伝えられています。
1616年4月17日。
徳川家康がなくなると、お万の方は、程なく駿府寺町の感応寺で髪を下ろし「養珠院」と号しました。
蓮永寺の養珠院供養塔は、静岡市指定有形文化財となっています。
静岡県静岡市葵区沓谷2-7-1
【アクセス】
JR静岡駅下車
しずてつジャストラインバス
・竜爪山線
・東部団地線
・唐瀬線
・北街道線どれでも「三松」下車すぐ
拝観料・参拝時間等の決まりはありません
rico
教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。
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