徳川家康の側室「お万の方」とゆかりのある「蓮永寺」
2024.04.01
2023.12.09
この連載は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』で舞台となった地を
後追い、あるいは先読みしながらご紹介していくものである。
なお、タイトルにちなんで、記載は年齢問わず「家康」で統一する。
今回の史跡は、徳川家康が鷹狩りの際に宿泊していた「田中城」です。
1537年に今川氏が「徳一色(とくのいっしき)城」という名で築城、
1570年に武田信玄が攻め落とした後、馬場信房が改修し「田中城」という名に。
徳川家康が長篠・設楽原の戦い後に田中城を攻めるも失敗、
以後7年にわたる継戦の末、1582年の甲州征伐後に開城させます。
武田氏時代に珍しい円形の城郭として拡張され、
湿地帯に守られた三重の堀と六つの丸馬出を備える要塞に変貌。
1601年には酒井忠利が外郭を設けさらに円形状となり、
亀の甲羅になぞらえて別名「亀甲城」とも呼ばれていたといわれております。
徳川家康は駿府城へ移った後、田中城周辺でたびたび鷹狩りを行いましたが、
1616年に田中城で宿泊した際、夜半に腹痛を訴え静養を余儀なくされることに。
田中城での最後の鷹狩りからおよそ3か月後、徳川家康は駿府城で亡くなります。
<徳川家康が鷹狩を楽しんだ史跡に関する記事はこちら>
徳川家康と鷹狩りにまつわる逸話がある横浜市栄区の鷹狩りスポット
・「下屋敷」に隣接する駐車場で案内図を確認してからスタート
11月に行った際は、藤枝菊花展会場として賑わっておりました
・門から中へ入り、まずは下屋敷の北東側にある「土塁」をチェック
・南へ進み、ジグザグに架かる橋からさらに先へ
写真右側の建物が「茶室」、その奥にあるのが「中間部屋」です
・「中間部屋」奥の厩には、このようにリアルな馬の模型もあります
・こちらは、下屋敷の南西にある非常時用の米を蓄えた「郷蔵」
移築されたものですが、藤枝市内に唯一現存する郷蔵とのこと
・郷蔵の左隣には、かつて本丸にあった「本丸櫓」が建っており、
内部へ入ると、おそらく等身大くらいの家康公がお出迎え
・1階には田中城復元模型があるので、ここで往時の姿をイメージしましょう
侍屋敷のある外郭が酒井時代の、その内側が武田氏時代の田中城の姿です
・2階には徳川家康と田中城の関係を記す展示物もあるので、こちらもお忘れなく
・下屋敷南側の冠木門がある出入口から外へ
横に流れる六間川は、かつての外堀に通じ重要な役割を果たしていたそうです
江戸時代に書かれた『徳川実記(とくがわじっき)』によれば、
徳川家康は駿府城に移った後、15回以上も田中城に寄り鷹狩りを行ったそうです。
この田中城で話題となるのが、徳川家康が食したといわれる「鯛のてんぷら」。
1616年1月に鷹狩りをするため田中城を訪れた際、
徳川家康が同行していた茶屋四郎次郎清次(三代目)に
「今上方で流行しているものは何か?」と尋ねると、茶屋四郎次郎曰く
「鯛をかやの油で揚げ、その上にニラをすりおろしてかけた料理が流行っております。
私も食べましたが、とてもいい香りがして美味でした。」とのこと。
これに興味を持った徳川家康は、夕食に鯛のてんぷらをつくらせ食しましたが、
その夜、田中城で就寝中腹痛に襲われる結果に。
食に気を使っていた徳川家康が食あたりで倒れた、という意外なこのお話から、
「徳川家康が亡くなったのは、鯛の天ぷらを食したことが原因なのでは…」
という食あたり説が以前は広くささやかれておりました。
しかし、鯛の天ぷらを食べてから亡くなるまで3か月空いていることや、
『徳川実記』に「腹にしこりができていた」などの記述があることから、
現在、徳川家康が亡くなった原因は胃癌だったのではないか、といわれております。
・県道224号を北西方面に進み、「三日月堀跡」へ
六か所設けられた馬出曲輪の内のひとつ、新宿二之門外にあったものです
・三之丸南東にあった「土塁」、写真手前はかつての堀跡だとか
・さらに西へ進み、現在は小学校となっている「本丸跡」へ
・本丸跡碑から北へ進み、「平島二之門跡」を通過します
・平島二之門跡の先にある平島一之門跡の「三日月堀跡」を振り返って撮影
写真の道路は三之堀跡、奥には「三之丸土塁」も見られます
・本丸跡方面に道路一本戻り西へ、少し進むと「家老屋敷跡」と「土塁」が
・道なりに南へ進むと、「大手二之門跡」と「二之堀」が見えてきます
ところどころ残るカーブが、往時の姿を想像させてくれますね
・こちらは、二之堀の道路一本外側にある「三之堀」です
・最後は、三之堀を西へ進み「姥ケ池」へ
田中城の水源だったとされ、今でもきれいな水が湧いております
方広寺鐘名事件を経て大坂冬の陣がいよいよ開戦。
真田信繫が真田昌幸のセリフを発しながら真田丸で奮闘、
徳川家康が大坂城天守に大砲を撃ちこむシーンでは
長篠・設楽原の戦いを思い起こさせる父子のやりとりも印象的でした。
次回は和睦から大坂夏の陣開戦あたりまででしょうか。
武家として豊臣家を率いる豊臣秀頼の本当の心の内、
千姫を助けた茶々の心の内など、豊臣方の動向が気になるところです。
『どうする家康』も、残すところあと二回となりました。
この先どこまで描かれるのか、鯛の天ぷらを食すシーンはあるのか。
楽しみに見届けたいと思います。
徳川家康の葬儀が行われた「増上寺」
田中城
場所:静岡県藤枝市田中3丁目14−1
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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