どこにいた家康 Vol.43 佐和山城
2023.11.10
2023.07.29
この連載は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』で舞台となった地を
後追い、あるいは先読みしながらご紹介していくものである。
なお、タイトルにちなんで、記載は年齢問わず「家康」で統一する。
今回の史跡は、神君伊賀越えの舞台のひとつとなった「小川城」。
1300年頃築城されたと見られておりますが、はっきりしたことは不明。
現在残る遺構は、小川城主だった多羅尾光俊(たらおみつとし)が
1585年頃に改修を行ったときのものだと考えられています。
甲賀地方に残る城跡の多くは、一つの曲輪を土塁で囲むというスタイルの
「単郭方形(たんかくほうけい)」ですが、小川城は複数の曲輪が存在。
京都と伊賀を結ぶ要衝にあり、徳川家康は伊賀越え前に小川城へ入城、
ここで休息をとった後に苦難の道を進んだといわれております。
・県道138号線からこの忍者看板を東方向へ進むと駐車場があります
・こんな道が続く道中、20分ほどかけてゆっくりと登ってゆきました
・尾根沿いにつながる「小川中之城」への道、険しそうだったので今回はスルー
・この案内看板を左折し南西側の曲輪上へ、主郭との間にある「堀切」を堪能します
・土塁で囲まれた素晴らしき「主郭」は、後ほどゆっくり見学しましょう
・主郭下にある曲輪を右手にみながら、北東の曲輪方面へ進みます
1582年6月2日、茶屋四郎次郎から「本能寺の変」を聞いた徳川家康。
当初は「知恩院で切腹しよう」と言いだすくらい慌てていたようですが、
本多忠勝らの説得により三河へ戻る決意をし、翌日に「伊賀越え」に挑みます。
「知恩院」を写真付きでご紹介した記事はこちら
(リンク先最下部のおまけで紹介しています)
この際に大きな役割を果たしたのが、長谷川秀一と多羅尾光俊の2人。
長谷川秀一は徳川家康一行の道案内をし、宇治田原城の山口光広との間を仲介、
山口光広は実父である小川城の多羅尾光俊と連絡を取り、協力をこぎつけます。
もう一人のキーパーソン・多羅尾光俊は、徳川家康一行を小川城へ迎え入れ、
伊賀越え時には子の山口光広らと甲賀衆を同道させて、手厚くサポートしました。
ちなみに徳川家康を迎え入れた際、多羅尾光俊はまず赤飯をふるまい、
空腹だった一行はこれを一気に平らげた、というお話があるとか。
後に、多羅尾光俊は「秀次事件」に連座し改易となってしまいますが、
豊臣秀吉亡き後、徳川家康が取り立てて旗本となったようです。
通ったルートを筆頭に「諸説あり」が多々ある伊賀越えですが、この返り咲きをみると、
多羅尾光俊が重要な役割を果たしたことに間違いないように思えますね。
・「北東の曲輪」から、北西方面にある小川の町並みを眺望
・北東の曲輪から、主郭との間にある「空堀と土塁」を確認し主郭方面へ
・北東側からの「主郭」、土塁はこちら側からの方がわかりやすいですね
写真では見づらいですが、この「主郭」には建物の礎石も残っております
・主郭内部にある「石積」、崩壊防止の土留(どどめ)用でしょうか
・武士たちが鍛練用に使ったという案内がある「砦の力石」
常人に持ち上げられる重量ではなさそうですが、往時の武士ならもしや…
・外側から見た「主郭虎口」と、「主郭」の北西側斜面
・主郭から南西の曲輪方面へ戻り、来た道を下山してゆきましょう
織田信長のラストシーンが描かれた前回でしたが、
岡田准一さんの熱演もさることながら、酒向芳さんの怪演にもひかれました。
感情的な人間としての明智光秀は個人的に好きなのですが、
『麒麟がくる』と『どうする家康』では全く違う明智光秀になりましたね。
いよいよ徳川家康最大のピンチともいわれる「伊賀越え」のはじまりですが、
諸説あるうちのどの説を採用するのかが気になるところ。
そして、あの本多正信がついに再登場という点にも期待したいと思います。
伊賀越えで徳川家康が立ち寄った「徳永寺」
小川城
場所:滋賀県甲賀市信楽町小川
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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