武将愛 SAMURAI HEART

どこにいた家康 Vol.43 佐和山城

2023.11.10

この連載は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』で舞台となった地を
後追い、あるいは先読みしながらご紹介していくものである。
なお、タイトルにちなんで、記載は年齢問わず「家康」で統一する。

徳川家康と敵対した石田三成の居城「佐和山城」

今回の史跡は、石田三成が入城し改修した「佐和山城」。

鎌倉時代初期、近江守護職を任されていた佐々木定綱の六男・佐保時綱が
佐和山の麓に館を構えたのが始まりと言われております。

近江の要衝に位置することから、六角氏と浅井氏により争奪戦が行われ、
その後、織田信長が手中に収めた際は丹羽長秀が入城。
本能寺の変の後には、豊臣(羽柴)秀吉の腹心であった堀秀政や堀尾吉晴、
石田三成らが入城し、豊臣政権下においても重要な城となりました。

関ヶ原の戦い後、徳川家康がすぐさま佐和山城への攻撃を命令。
3日ほどで落城させると、翌年には井伊直政が入城します。
その後、徹底的に城割(城の破壊)され、1606年に彦根城天守が完成した後に廃城。
建物などは彦根城築城の際に運び出されたため残っておりません。

登城路にある遺構としては曲輪や櫓跡などが残るのみですが、
山頂にあたる本丸跡から一望する彦根城は絶景です。

石田三成に関する記事一覧はこちら>

関ヶ原の戦いに関する記事が盛り沢山!一覧はこちら>

 

「佐和山城」の見学ルート①

・西側にある広い駐車場から東へ進み、「龍潭寺」から中へ

・門をくぐった右手には、静かに座している「石田三成公像」が

・石田三成公像の近くには、「大久保忠隣公幽居之址」碑もあります
徳川家における重要人物・大久保忠隣が配流されたのがこの地とのこと

・龍潭寺の「山門」、さらに本堂の横を通って奥へ進みましょう

・墓地の横を通り、この写真のあたりから登りがスタート

・5分ほど登ると、この分岐路までたどり着きます

・さらに5分ほど登り、三段の曲輪で構成された西の丸跡へ
こちらは、下段曲輪にあたる「塩硝櫓跡」

 

石田三成と「佐和山城」のエピソード

石田三成が佐和山城へ入城したのは1591年頃。
前任者の堀尾吉晴が、徳川家康の関東移封に際し浜松城へ入城、
空いた佐和山城に石田三成がまずは代官として入り、その後城主になったとか。

石田三成は1596年頃に佐和山城の大改修を行い、
「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」
このようにうたわれるほどの壮大な天守を築いたといわれております。
ちなみに、「過ぎたるもの」のもう一つ「島の左近」は
石田三成に仕え活躍した島左近清興(きよおき)のこと。
立派な島左近と佐和山城は石田三成にはもったいない、というような意味です。

その後も石田三成は豊臣秀吉のもとで活躍するものの、
不和だった武断派の武将たちと石田三成の関係は修復不可能なほど悪化。
1598年に豊臣秀吉、次いで1599年に前田利家が亡くなると、
武断派の武将たちが憎き石田三成を襲撃するという事件がおこります。
この時、徳川家康が仲介しなんとか事なきをえるものの、
石田三成は責任を取るかたちで佐和山城にて隠居することに。

そして1600年、徳川家康を討つべく石田三成は佐和山城を出て挙兵、
豊臣家の未来の為に奮闘するものの、結果は徳川家康の勝利。
関ヶ原の戦いで敗れた石田三成は捕縛され斬首となり、
佐和山城は徳川家康の命を受けた小早川秀秋らに攻められ落城します。

ちなみに、落城後の佐和山城へ入った板坂卜斎(いたざかぼくさい)という人によれば、
「佐和山城には金銀が少しもなく、石田三成は殆んど蓄えを持っていなかった」とのこと。
豊臣秀吉の恩寵を受け、金銀を貯めこんでいるだろうと思っていた人々は、
その質素な暮らしぶりを想像し息をのみ、これを聞いた徳川家康は、
「武士たるもの、そうでなくてはならぬ」と言った、というお話もあります。

 

「佐和山城」の見学ルート②

・「西の丸跡」を下段曲輪から上段曲輪まで移動

・西の丸跡の上段曲輪から10分弱登り、いよいよ「本丸跡」へ

・本丸跡から西側を見渡せば、彦根の街が一望できます

・ここから見る彦根城と琵琶湖は、まさに絶景と言えるでしょう

・本丸跡の下段に降り、天守台跡のものとみられる石垣のもとへ

・こちらが算木積みの「隅石垣」、まさに、兵どもが夢の跡…

・下山し、佐和山城の駐車場から南へ
東山公園の駐車場あたりから、佐和山城を見上げる

・駐車場付近には「佐和山一夜城」という天守の石像もあります

 

次回どうなる、『どうする家康』

伏見城の戦いが終わり、いよいよ始まる関ヶ原の戦い。
今後の行方を決める小山評定も行われましたが、豊臣家臣たちの前で
徳川家康が「天下を取る」という発言をしたのが驚きでした。

豊臣秀頼に反する者を誅するという「政権内の内紛」という視点ではなく、
この時点で徳川家康が天下人の座を狙っていたのを皆許容していた、
という視点で関ヶ原の戦いに突入してゆくのでしょうか。
はたして、井伊直政のその後を左右する「島津の退き口」は登場するのか。
揺れ動く小早川秀秋の描写とともに、こちらにも注目したいと思います。


関ヶ原古戦場にある「徳川家康最後陣跡」

今回の史跡「佐和山城」

佐和山城
場所:滋賀県彦根市古沢町

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新井 良典

愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。

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