愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2022.01.29
戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。
設楽原で武田軍に大打撃を与え、これを好機と見て失地回復をはかる徳川家康。
高天神城奪還にむけ、横須賀城などを築き攻略にとりかかります。
嫡男・織田信康に武田方と内通した疑いで切腹を命じる、という悲劇を経て
1582年、高天神城奪還に成功。武田家滅亡後、蒲原城なども取り返します。
横須賀城跡
所在地:静岡県掛川市西大渕5383
蒲原城跡
所在地:静岡県静岡市清水区蒲原2528
織田信長の招きにより安土城を訪れた徳川家康は、引き続き堺に滞在し畿内を視察。
その最中、徳川家康のもとに「織田信長が本能寺で討たれる」という信じがたい報せが。
突然の凶報に混乱する徳川家康一行でしたが、気を取り直し岡崎に帰ることを決断。
小川城から伊賀惣国一揆が支配する危険地帯を脱して、本拠地まで帰還しました。
これが世に言う「神君伊賀越え」ですが、そのルートについては諸説あります。
下の写真は、徳川家康一行がその道中に休憩したと伝わる遍照院。
小川城跡
所在地:滋賀県甲賀市信楽町小川
遍照院
所在地:京都府綴喜郡宇治田原町奥山田岳谷17
羽柴秀吉が織田信長の弔い合戦を制した頃、徳川家康は甲斐国をめぐって北条氏と対立。
徳川軍は新府城に布陣し戦を展開、最終的に両者は和睦し同盟関係となります。
この争いで活躍したのが真田昌幸でしたが、彼の占領地は和睦で北条氏のものに。
扱いに不満を抱いた真田昌幸は、以後徳川家康にとって悩ましい存在となります。
新府城跡
所在地:山梨県韮崎市中田町中條4787
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った羽柴秀吉と織田信雄でしたが、両者の関係は徐々に悪化。
1584年に羽柴秀吉が出兵すると、徳川家康も織田信雄と組んで参戦し、両軍は小牧の地で激突します。
岩崎城攻防戦などで一進一退の展開の後、徳川家康は小牧山城から移動し色金山へ布陣。
岡崎奇襲を狙った羽柴軍を長久手で破るなど、戦況を変え優位な立場に。
こちらは、徳川家康が色金山から進軍し金扇の馬印を立てたという御旗山。
その後この戦いは、徳川家康の知らぬところで織田信雄が羽柴秀吉と和睦し終結。
はしごを外されたかたちの徳川家康も、次男・於義丸を羽柴秀吉の養子とし和睦します。
色金山歴史公園
所在地:愛知県長久手市岩作色金35
御旗山(富士浅間神社)
所在地:愛知県長久手市富士浦602
抹茶を飲んで一休み。–徳川家康のいた御旗山と色金山– 小牧・長久手の戦い「長久手古戦場」の記事はこちら
其の一は、切腹に追い込まれた松平信康の首塚がある若宮八幡宮。
切腹に至った原因は、ご乱心説やら父子不仲説やらありますが真相やいかに。
其の二は、本能寺の変を知った徳川家康が切腹を考えた場所と言われる知恩院。
ここで家臣たちの説得を受け入れなければ、後の世はどうなっていたやら。
若宮八幡宮
所在地:愛知県岡崎市朝日町字森畔12
知恩院
所在地:京都府京都市東山区林下町400
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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