どこにいた家康 Vol.46 大坂城
2023.12.02
2016.09.15
安藤正次墓所と大坂の陣の舞台「平野」
戦国時代、堺とともに自治都市として発展した平野(ひらの)。
現在の大阪市平野区の北部地域を中心としたエリアです。
豊臣秀吉の時代から江戸時代初期まで、平野の領主は北政所(秀吉の正室・おね)。1624年に彼女が亡くなったあとは幕府領となりました。
平野の町なかに、立派な五輪塔が建っています。大坂夏の陣で命を落とした徳川方の武将・安藤正次の墓です。
安藤正次は徳川秀忠の旗本として、大坂冬の陣・夏の陣に出陣しました。
1614年の大坂冬の陣では、平野の指導者が徳川方についたため、町は豊臣方に焼かれています。その直後に秀忠が平野に入り、本陣を構えました。冬の陣は大坂城に籠城する豊臣方を徳川方の大軍が包囲したまま、膠着状態が続いたのちに講和となりました。
しかし、翌年1615年には夏の陣が勃発。
家康は駿府から京・二条城、家康秀忠は江戸から伏見をそれぞれ経て、大坂へ入ります。道明寺(現在の藤井寺市)、八尾・若江(現在の八尾市)など各地で徳川方と豊臣方が激戦を繰り広げ、相次いで有能な武将を失った豊臣方。
真田幸村を殿軍(しんがり)に大坂城の南、天王寺まで退却します。
「平野」は道明寺の北、八尾の西、天王寺の南東という、まさに戦場のど真ん中に位置。
八尾方面から平野へ敗走する豊臣方の長宗我部隊を徳川方が追撃するなど、平野も戦いに巻き込まれています。町内の願正寺には徳川方の陣がありました。
布陣図右下の徳川秀忠が陣を置いているあたりが平野です。(出典Wikipedia)
決戦となった天王寺・岡山合戦。
安藤正次は秀忠の使者として、岡山口(現在の大阪市生野区勝山)で豊臣軍と最前線で対峙している前田利常・本多康紀隊のもとへ向かいます。「敵陣へ迫れ」という指示を伝えるために――。
ところが、豊臣方の敵兵に遭遇し、敵将の首級を挙げる活躍をしながらも重傷を負います。家臣に助けられながらなんとか岡山の本陣にいる秀忠の元に戻った正次は、徳川秀忠からお褒めの言葉をもらいます。
その後、平野の願正寺で治療をしていましたが、傷が癒えないまま、戦えぬ身を嘆き、願正寺で自害します。享年51歳。
墓は子の正珍(まさよし)によって建てられました。菩提寺となった願正寺は、現在も墓から南へ徒歩5分のところにあります。
安藤正次墓所の傍らにある石盥盤(いしたらいばん)。正次の曾孫・安藤定房が1701年5月19日に寄進したものです。
菩提寺の願正寺には、正次所用といわれる「岩突きの槍」が伝わっています。
大坂夏の陣のあと、家康の命により復興が進み、1616年には町割りが完成。
それから約400年、環濠はほとんど埋められてしまいましたが、現在もほぼ往時の町割りが残っています。
1763年に出された「摂州平野大絵図」。大坂の陣で被災したあと、家康の命によって復興が図られてから、およそ150年後の様子。
環濠の東端に小さな五輪塔が描かれ、「安藤氏墓」と記されています。
複数の街道が町から放射状へ延びており、交通の要衝だったことがよくわかります(出典『平野区誌』)。
大阪市平野区平野東1丁目7
JR大和路線平野駅から南東へ徒歩15分、
または地下鉄谷町線平野駅から北東へ徒歩15分
参拝自由
akiko1973
関西在住のフリーライター。自分の住むところが戦国の乱世を生き抜いた町だと知り、いろいろ調べたり歩き回ったりしています。今の中に「むかし」を見つける楽しさをお伝えできればと思います
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