信長・秀吉・家康と三英傑にゆかりのある「大徳寺」をご紹介
2024.07.30
2018.05.01
江戸を風水で固めた徳川家康。
その陰には天海僧正がいたということは、皆さんもよくご存ですよね。
記事にも書かせていただいたようにいろいろな要点を風水で固め江戸を守りました。
その天海僧正と同じくらい、徳川家康にとって大切だった人物がいるということは、あまり知られていません。
金地院崇伝(こんちいん すうでん)といえばもしかするとご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
金地院崇伝は1569年に生まれ1633年に亡くなったとされる臨済宗の僧侶です。
安土桃山時代から江戸時代にかけてですね。
南禅寺金地院に住んでいたため、金地院崇伝と呼ばれることの方が多いようです。
この金地院崇伝こそが、徳川家康のもうひとりの黒幕といわれる人物。
徳川家康に仕え、江戸幕府の法律を立案し、外交から僧侶宗教の統制を担った人物とされています。
武家諸法度は、この金地院崇伝が起草したもので、金地院崇伝が自ら諸大名に布告したといいます。
実は金地院崇伝はもともとは足利将軍家の側近武士出身です。
1573年、織田信長によって足利義昭が追放されたことにより室町幕府が滅びたため、京都でも徳の高いとされていた南禅寺で出家しました。
その後いくつかの寺の住職となりましたが、1608年に徳川家康に呼ばれて駿府城へ。
その後家康に仕えて幕府の政治に関わるようになりました。
このとき金地院崇伝は、駿府城内に住まう寺として金地院を与えられました。
徳川家康は豊臣秀吉が発令したバテレン追放令を無視して、キリシタンを黙認していました。
それは、徳川家康が朱印船貿易を行うことを重視していたからです。
けれど、キリシタンによるキリシタン大名への搾取が起こったことで、徳川家康は金地院崇伝にキリスト教禁教の起草を命じました。
これが伴天連追放之文といわれるものです。
このように金地院崇伝は、徳川家康の命のもと、伴天連追放之文からキリスト教の禁止、武家諸法度、寺院諸法度、禁中並公家諸法度という数々の制に関わっていきました。
大坂冬の陣、夏の陣の発端になったのは、徳川家康が豊臣秀頼に脅威を抱いたことがそもそもの発端。
けれど、それに火をつけたのが「鐘銘事件」とよばれるもの。
方広寺の鐘に「国家安泰」「君臣豊楽」と記されていることが、豊臣家が徳川家康に呪詛をかけ、豊臣家の繁栄を願っていると言われたこと。
これを指摘したのが金地院崇伝だったとか。
これについては、諸説あり本当かどうかはわかっていないそうですが、この説は広く知られているようです。
このように南禅寺と徳川家康、そして豊臣家とは深いかかわりがあるのです。
京都府京都市左京区南禅寺福地町86
アクセス
JR京都駅から市営バス5系統「南禅寺永観堂道」下車 徒歩10分
急行100系統「宮ノ前町」下車 徒歩10分
地下鉄東西線 蹴上駅下車 徒歩10分
rico
教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。
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