どこにいた家康 Vol.42 松尾山城
2023.11.04
2017.06.20
平塚為広という人物をご存知ですか?
彼は名門三浦家出身の武将であり、豊臣家の家臣で岐阜県の垂井城の城主でした。
豊臣秀頼につかえていた時に、関が原の戦いの西軍として戦うことになってしまいます。
その時死を覚悟したのか、盟友・大谷吉継と送った辞世の句が感激すると人気の高い武将です。
彼の陣跡は関が原町に、居城後は垂井町にあります。
義の武将として人気が高い、平塚為広ゆかりの地をご紹介します。
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まずは関が原のお隣、垂井町にある居城跡を見てみましょう。
「平塚為広」は、慶長5年(1600年)には美濃垂井に1万2000石の所領を与えられ、垂井城城主となりました。
まさに関が原の戦いの起こる年に垂井城を与えられたのですね・・・。
おそらく1年もそこにいなかったのではないかなと思いますが。
この居城跡に行くには、岐阜県の名水50選のひとつ「垂井の泉」を目指します。
県指定天然記念物「垂井の大ケヤキ」(現在は台風で倒木し、タルイピアセンターにて展示中)の根元から、湧き出ている水です。
茶会の水としても親しまれ、今でも汲みに来ている人もいるとか。
音声ガイドもあります。
これがけやき?と思いがちですが、桜の木です。
その隣のこんもりした丘のようなところに、居城跡ののぼりがあります。
ここにほんの少しだけ住んでいたんだなあと思うと感慨深いです。
1600年に垂井城主となり、たった半年で関が原の戦いが起こります。
この時、らい病だった大谷吉継を守る形ですぐ近くで陣を張った平塚為広。
大谷吉継の代わりに陣頭指揮をとっていたとも言われています。
関ヶ原観光ガイドによると、この碑はあの平塚らいてうのお父さんが建立したのだとか!すごい子孫がいますね。
この碑は平塚家8代為忠の次男で、評論家・女性解放運動家として有名な、平塚らいてうの父である平塚定二郎により建立されました。
まさに松尾山の見張りを兼ねていたような位置にある大谷吉継の陣。
小早川軍が背反するに及んで、山内一豊の家臣・樫井太兵衛に討たれて藤川台で戦死します。
平塚為広と大谷吉継は三成に挙兵を辞めるよう説得していますが、失敗に終わります。
きっと勝敗は見えていたのか、二人の辞世の句は友情物語として人気です。
武将JAPANさんの記事で「平塚為広辞世の句」意訳と句が載っていたので引用します。
「君がためすつる命は惜しからじ 終(つひ)にとまらぬ浮世と思へば」
(意訳:主君や友誼を結んだ君のためになら、命を捨てるのも悪くない。この世で永遠に生きられるわけでもないのだから)文字通り命を惜しまず、爽やかささえ感じるこの句を見て、吉継も覚悟を決めました。
返歌として次のように詠んでいます。「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」
(意訳:もしあの世でも縁があるとしたら、死後の世界の入り口で待っていてくれ。遅かれ早かれ、私もそこへ行くだろうから)
「君のために捨てる命は惜しくない」
「私もそこへ行くからあの世で会おう」
なんだか、恋人同士のような句ですが友情物語。
お互い義に行き、この戦いでこの世を去ったと思うとなんとも言えない気分になりますね。
今回はあまりメジャーではないものの、生き様に感動する人が多い平塚為広の2つの陣跡を紹介しました。
住所:岐阜県不破郡垂井町泉
住所:岐阜県関ケ原町大字藤下445-4
サイト:https://www.sekigahara1600.com/spot/hiratsukatamehironohi.html
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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