どこにいた家康 Vol.42 松尾山城
2023.11.04
2023.10.22
この連載は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』で舞台となった地を
後追い、あるいは先読みしながらご紹介していくものである。
なお、タイトルにちなんで、記載は年齢問わず「家康」で統一する。
今回の史跡は、交通の要衝に位置し「かなめの城」といわれた「大垣城」。
1500年に竹腰氏、もしくは1535年に宮川氏による創建と言われております。
宮川氏が治めた後は、斎藤氏と織田氏による争奪戦が繰り広げられ、
永禄年間(1558~1570年)頃に、斎藤方だった氏家直元が大幅な改修。
その氏家直元が1567年に織田信長へ鞍替えすると、以後は織田方に属します。
豊臣(羽柴)秀吉の時代には、池田氏の時代を経て加藤光泰が城主となりますが、
後に加藤光泰は勘気を被り領地を召し上げられることに。
この時、豊臣秀吉は書状で大垣城を「かなめの所大柿之城」と評しており、
重要な存在と考えていたことが、この書状からもうかがい知れます。
1588年頃に天守が築かれたといわれており、関ヶ原の戦いでは西軍の本拠地に。
その後は徳川家康の譜代である石川氏・松平氏が入城し大垣城を改修、
1635年に戸田氏鉄が入城すると、以後は明治に至るまで戸田氏の居城となります。
空襲で焼失してしまった天守が1959年に再建されると、
内柳門を移築し東門としたほか、丑寅櫓・戌亥櫓なども次々と再建。
再建時の天守は観光用に窓が大きめにつくられていましたが、
2011年に焼失前の外観に近くなるよう改修されました。
・天守の南西にある大垣公園から見学開始
かつては、公園の西側が竹の丸、大垣城ホールのあるあたりが三の丸でした
・こちらは、かつて二の丸だった地に鎮座する「濃飛護國神社」
・北へ進み、城西広場から「天守」と「戸田氏鉄公騎馬像」を見上げる
大垣城最大のフォトスポットと言っても過言ではないでしょう
・城西広場に面する、本丸へ続く「西門」
往時は水堀が張り巡らされており、こちらに門は無かったもよう
・本丸へ行く前に、大垣城の特徴のひとつである化石をチェック
西門まわりは特に多くみられるので、石垣を注意深く見てみましょう
・西門をくぐり左手に進めば、いよいよ「天守」へ
天守内は、展示コーナーの他に弓を引ける体験コーナーもあります
・「天守」最上階の様子と、最上階からの眺め
写真2枚目は関ヶ原方面、写真3枚目は望遠で撮影した岐阜城
1585年に豊臣秀次の家老・一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)が入城。
前年の小牧・長久手の戦いで徳川家康にしてやられた豊臣秀吉は、
大垣城に兵糧を集めて三河へ出兵の用意を着々と進めていたようです。
しかし、翌年に天正地震が発生すると、事態は一変。
大垣城が焼失するなど各地で甚大な被害がでたため、
豊臣秀吉は徳川家を潰すのではなく懐柔するよう方向転換します。
1590年、一柳直末が小田原攻めで命を落とすと、大垣城には伊藤盛景が入城。
関ヶ原の戦い前には、西軍の石田三成が大垣城を本拠地として東軍を迎え撃ちます。
石田三成は当初、大垣城で赤坂岡山に布陣した徳川家康に勝負を挑む予定だったとも
いわれておりますが、結局大垣城を出て関ヶ原で布陣することに。
関ヶ原に布陣することになった動機としては、
・東軍が流した「大垣城を無視し佐和山城を攻める」という噂に踊らされた?
・東軍が大垣城を水攻めするのを恐れて城を出た?
・松尾山に陣取った「どっちつかず」の小早川秀秋を取り込むため関ヶ原へ布陣した?
以上のような様々な説があります。
石田三成移動後は、義弟・福原長堯(ながたか)が大垣城を守備。
しかし、関ヶ原の戦いで一日とたたず西軍が敗れると、
大垣城に水野勝成ら東軍の兵が殺到、福原長堯は健闘むなしく降伏することに。
この時、石田三成の家臣だった山田去暦の娘が大垣城から脱出、
尼となった後に戦いの様子を語り継いだといわれており、
このお話が「おあむ物語」として記録され、現在まで伝えられております。
・天守を出て、お次は東にある「丑寅櫓」と東門へ
・「東門」の石垣には、化石や刻印のされた石があるのでこちらもお忘れなく
・「東門」と「丑寅櫓」を外側からも堪能し、北→西と進みます
・20mほど進むと、北側の入口「水之手門跡」と「戌亥櫓」が目前に
・水之手門跡から本丸へ入り、「戌亥櫓」と「天守」を見る
戌亥櫓の横には、『おあむ物語』ゆかりの「おあむの松(三代目)」もあります
・本丸の南側にまわり、二之丸との出入口だった「鉄門跡」と「辰巳櫓跡」を見学
時間があれば、さらなる化石探しや水堀・門跡巡りをするのもおススメです
徳川家と織田家を支えたムードメーカー、
酒井忠次と豊臣秀吉の最期が描かれた前回。
これから徳川家を支えた重要人物たちが亡くなっていきますが、
残念ながら、大久保忠世・服部半蔵らの最期はふれられず。
進行具合で仕方ありませんが、秀次事件もカットとなってしまいました。
徳川家康に今後を放り投げた後、茶々の本音を聞いた豊臣秀吉。
戦が終わらないことへの喜び、茶々の心配は無用だという安堵、
豊臣秀吉最期の心境やいかに?
様々な想像が膨らませる素晴らしいシーンでした。
織田信長に続き豊臣秀吉も舞台を去り、残る三英傑は徳川家康のみ。
次回は石田三成とのすれ違いが描かれてゆくと思われますが、
関ヶ原まであと少し、どのような過程で戦となってゆくのかに注目したいと思います。
鵜沼宿に移築されている「旧大垣城鉄門」
大垣城
場所:岐阜県大垣市郭町2丁目52
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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