どこにいた家康 Vol.42 松尾山城
2023.11.04
2018.06.12
大垣駅から約徒歩7分の「大垣城」は、水堀を幾重にもめぐらせた堅城で、全国的にも珍しい4層の天守の平城です。
消失前の敷地は現在の3倍以上、櫓の数は10を数える大変規模の大きな要塞だったそうです。
関ヶ原合戦のときには、石田三成により西軍の本陣として使われていました。
しかし、関ヶ原で西軍が敗戦すると、大垣城の戦いにより東軍に開城することになります。
その後、寛永12年(1635年)以降は、尼崎から転封となった戸田氏が入城し、戸田家11代が十万石の城主として、明治6年の廃城令までこの地をおさめます。
その後、「大垣城」は戦火を浴び建物は消失してしまいますが、その後昭和34年に再建されました。
「大垣城」の築城は1500年で、竹越尚綱により揖斐川の東にある牛屋に築かれ、「牛屋城」と呼ばれていたそうです。その後、織田信長の父・織田信秀が牛屋城を落とと織田信辰を配置しますが、5年後には斉藤家の重臣である竹越尚光が城主となっています。
1559年ともなると楽田城からこれまた斉藤家の重臣で西美濃三人衆の一人、氏家卜全が城主として入り、城の改修を行い総構えの構造にしたと言われています。
その後、豊臣政権になってからは池田恒興が15万石で城主になりますが、小牧・長久手の戦いで戦死。
豊臣秀次の宿老に任命された一柳直未が3万国で「大垣城」に入城しますが、天正13年の天正地震で城がなくなってしまいます。
その立て直しを一柳、もしくは伊藤盛景が城主のときに行ったと言われていますが、天正18年の小田原征伐で武功を上げた伊藤守景が城主となり、その後は子が跡を継ぎました。
そして関が原の戦い。
石田三成が大垣城を本陣としましたが、西軍が破れることにより「大垣城」は取り残されてることに。
しかしここで裏切りが・・・。
大垣城の警護にあたっていた西軍の相良頼房、秋月種長、高橋元種らが東軍の水野勝成によって寝返り、木村由信ら他の家臣は謀殺されてしまいます。
残されたのは城主は、石田三成の娘婿の福原長尭のみ。抗戦を続けたものの、9月23日に降伏し開城となりました。
そのときの逸話が『おあむ物語』として残っていて、大垣市のキャラクター「おあむちゃん」の元にもなっています。大垣城にはおあむの松があり、第二次世界大戦の前に枯れてしまったそうで、現在のものは2代目の松なのだとか。
おあむが城からの脱出の際、この松から堀の「たらい」へ乗り移ったと言われているそうです。その逸話から春と秋にでおおがきたらい舟が運行されています。
その後は尼崎から戸田氏が転封となり、明治6年の廃城令によって廃城となるまで、11代は戸田家によって治められてきました。
廃城令から天守など一部の建物は破却を免れたため、昭和11年に天守などが国宝に指定されていましたが、大垣空襲により焼失してしまいます。
しかし昭和34年に再建され、2017年には続日本100名城に選ばれました。
現在はお城の中は博物館となっていて、火縄銃体験などができたり天守最上階には展望台があります。
お城の遺構としては、大垣城七口之門という惣郭の大手、南口、柳口、竹橋口門、清水口門、辰之口門、小橋口門の跡が残っています。
天守が復興された時に、七口之門の1つである柳口門が大垣所の東門に移築されました。
当時は何重にも水掘が巡っていましたが、現在は埋め立てられています。
当時の様子を見るなら、お城の目の前の郷土館にいくと当時のジオラマが展示されているので、「大垣城」の堅牢さが伝わると思います。
住所:大垣市郭町2-52
電話:0584-74-7875
9:00~17:00
休館日は年末年始のみ
<交通アクセス>
JR大垣駅 南へ徒歩7分
<入場料>
大人100円・高校生以下無料
郷土館・守屋多々志美術館・奥の細道むすびの地記念館との4館共通券 (大人600円)
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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