武将愛 SAMURAI HEART

この記事は2022年6月6日記事のため内容が古い可能性があります。

関ヶ原の戦い|関が原古戦場跡から考える後編

2022.06.06

関が原

前回は、豊臣秀頼推しの石田三成と、自分推しの徳川家康について説明させていただきましたので、今回は石田三成の軍からみた関ヶ原の戦いに追ってみたいと思います。

 

石田三成陣跡から古戦場を見渡して

石田三成の布陣跡にある展望台。

ここは古戦場全体が見渡せる笹尾山の展望台です。

関が原

9月15日、関ヶ原の戦い当日。

徳川の軍には、徳川2代将軍徳川秀忠が率いる3万8千の軍勢がまだ到着していませんでした。

そのため『兵多きが勝つ』と言われていたように、この時点ではわずか、1万の差ではありますが、西軍の方が軍勢の規模は大きく有利でした。

そこで石田三成は、大坂城にいる毛利輝元に出陣の要請をしましたが、毛利輝元は出陣してくることはありませんでした。

その理由については諸説あるようですが、その中のひとつには要請の手紙が徳川軍に奪われてしまい、毛利輝元の元に届かなかったのでは?という説があります。

もしこの時、毛利輝元に出陣要請が届き、出陣していたとしたら、石田三成は、展望台からまっすぐ前に見える松尾山に輝元の陣を置き、総大将として指揮を執らせようと考えていたそうです。

関が原

ところが、結果的に毛利輝元が出陣することがなかったため、石田三成が軍の総指揮を執ることになりました。

 

石田三成の指揮

戦いの総指揮をとることになった石田三成。

石田三成は、近江佐和山城で石高十九万四千石、六千の兵を率いていましたが、軍事に関わる仕事ではなく奉行であったため、現場での総大将という任務はある意味畑ちがいであり、指揮をうまくとることができなかったようです。

そのような中、松尾山に布陣していた石田三成側の小早川秀秋の一万五千という軍が山を下って、松尾山ふもとに布陣していた石田三成側の大谷吉嗣の軍に攻撃をしました。

関が原

寝返りです。

関が原

小早川秀秋の軍が同じ石田三成側である大谷吉嗣の軍を攻撃をし、石田三成を敵としたのは、徳川家康からの誘いによるものだったようです。

このことをきっかけに戦いの流れが変わり大谷軍、小西軍、宇喜多軍などが崩れてしまいました。

その結果、西軍は、石田三成の軍、そして島津軍だけになってしまい、石田三成はとうとう戦意を失ってしまいました。

関が原

そして石田三成は、この笹尾山の山の裏を通り、伊吹山の方角へ脱出したといわれています。

 

石田三成の見た景色

正面の大きな山、南宮山。

関が原

毛利秀元や石川広家らの軍勢がいましたが、関ヶ原の戦い当日は動くことがありませんでした。

そして、その手前にある森。これこそが徳川家康の最後の陣が置かれていた場所。

こちら正面にあるのが松尾山です。寝返った小早川、毛利軍が陣を置いていた場所です。

関が原

 

石田三成の想い

石田三成は最後にここで何を想っていたのでしょう。

それともここに立ち、何かを考える余裕もなく伊吹山の方へ脱出したのでしょうか。

その後捕らえられるまでの日数はわずか6日間でした。

関ヶ原の戦いの記事一覧はこちら

関ヶ原の戦い|関ヶ原古戦場跡から考える前編

 

【関が原古戦場へのアクセス】

岐阜県不破郡関ケ原町

JR関ヶ原駅 徒歩20分

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rico

教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。

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