どこにいた家康 Vol.42 松尾山城
2023.11.04
2019.05.23
岐阜県の輪之内町にある北塚は、関ヶ原合戦の8月16日の前哨戦が起きた場所。
西軍に与した丸尾氏が守る福束城を、東軍の徳永寿昌と市橋長勝が町に火を放ち丸尾氏が城を捨て大垣城に逃げたという戦いです。
この時の戦死者が埋葬されている北塚があります。
慶長5年(1600)当時、福束城は石高2万石で丸尾三郎兵兵衛兼利が居城していました。
揖斐川沿いに城があったため、舟運の便がよく戦においては重要な場所になると見込まれたのではないでしょうか。
丸尾氏の元には、東軍も西軍もどちらからも声がかかります。
しかし丸尾氏は豊臣秀吉と親しく、裏切ることはできないと判断して西軍に与することとなります。
石田三成のいる大垣城の附城で、重要な役割を持っていました。
現在福束城の遺構は残っていません。合戦で廃城となり、明治時代の三川分流工事により跡形はなくなってしまったとのこと。現在は推定地しかわからないとのこと。
残っている資料は福満寺にある版木のみ。この版木にはに城の絵が書かれていて、城の形を知ることができます。
この版木は寛政4年(1792)に丸尾家にゆかりのある丸尾肥後守が福万寺の境内の様子を桜の板に刻み、寄附したもの。
この版木を彫ったときはまだ城が残っていた時期で、幻の城を知る唯一の手がかりとなり、町指定の文化財となっています。
そして慶長5年(1600)8月16日の夜中に東軍が大榑川を渡り、城の西側から侵入。そして集落に火を放ち急襲しました。
丸尾氏の軍隊は必死に戦ったものの破れてしまい、城主は大垣城へ逃亡。福束城は落城します。
両軍、そして集落の村人ら多くの犠牲者がでてしまいます。その亡骸を葬り、石仏を建てた場所が北塚と呼ばれます。
福束城を奪った東軍は市橋氏が入城し、東軍勝利のために働きます。
共に戦った徳永寿昌の墓は海津市にあります
合戦後、丸尾氏は加賀国へ落ち延びたものの、その後の消息は不明とのことです。
北塚は現在は関ヶ原合戦の史跡看板が建てられていて、歴史の背景も知ることができます。
岐阜県安八郡輪之内町大藪
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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