愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2022.05.23
〜過去の取材記事の投稿となります〜
関ヶ原古戦場跡。
関ヶ原全体を見渡すことができるこの場所は、石田三成の本陣跡がある笹尾山です。
今回は前後編に分けて関ヶ原古戦場跡から紐解く『関ヶ原の戦い』についてお話していきます。
関ヶ原の戦いは、結果的に豊臣政権から徳川政権に移るきっかけになった戦いですが、厳密にいうと豊臣家と徳川家の戦いであったわけではありません。
大坂城には三成側の毛利輝元が陣を取っており、大坂城に豊臣の兵がいたので、どちらかといえば三成側ということはできるかもしれませんが、豊臣秀頼がこの戦いの石田三成軍に加担し、徳川家康を倒すように指示したわけではないといいます。
あくまでも豊臣秀頼は中立の立場であったといいます。
さて、この関ヶ原の戦いが起こったきっかけは、豊臣秀吉が亡くなり、その跡継ぎであった豊臣秀頼がまだ6歳という幼い年齢であったこと。
6歳では天下を治めることはことはできないと、徳川家康は天下取りに立ち上がりました。
それに対して、石田三成が、豊臣秀頼が6歳であっても、周りがサポートすれば十分に国を治めることができると主張しました。
これがきっかけで、石田三成と徳川家康が対立したことによって関ヶ原の戦いが起こりました。
石田三成は、ここ笹尾山に布陣しましたが、偶然この場所になったわけではなく先知していたと考えられています。
笹尾山は、その前を通る北国街道を押さえることができる位置にあり、しかも高台で盆地を一望できるため陣を置くにはとても適した場所でした。
急な勾配を上まで登っていくと、頂上に石碑があります。
さて、石田三成はまだ6歳という幼い年齢でも政権は維持できると主張しましたが、それにはきちんとした裏付けがありました。
その裏付けとは、室町時代にも幼少の将軍がいましたが、周りのサポートにより政権が維持されたという実績。
石田三成は当初、自分の考えに賛同してくれる味方を固め、勝算はあったわけなのですが、結果的に毛利・吉川・小早川の軍勢を思い通りに動かすことができなかったため敗北してしまいました。
そのため、石田三成の行動によって豊臣家が滅びてしまったのではないかといわれてしまうこともあるようです。
関ヶ原の戦いは、徳川家康が勝利したことで、徳川政権により、泰平の世を長く築くことができました。
けれど起きたことがよいことなのかは、いつの時代も後から振り返ってみて初めてわかるものですね。
【関が原古戦場へのアクセス】
岐阜県不破郡関ケ原町
JR関ヶ原駅 徒歩20分
rico
教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。
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