どこにいた家康 Vol.42 松尾山城
2023.11.04
2018.05.23
美濃路は中山道の垂井宿と、東海道の宮宿を結ぶ「脇街道」で、多くの人が利用した道でした。
特に東海道は七里の渡しを使って、宮宿から桑名宿へ移動するルートがありましたが、水路は天候によっては水難事故の可能性もあるなど読めない事が多い道。
そのリスクを最小限に抑えるため、遠回りになっても美濃路を使って中山道に入って西を目指すというルートを選ぶ人に重宝されいました。
関ヶ原の戦いで関ヶ原に進軍した福島正則が通った道であり、戦いに勝利した徳川家康が、関ヶ原から凱旋したときに通った道で「吉例街道」とも呼ばれ、縁起のよい道としても知られています。
そんな美濃路の宿場であり、中山道の分岐点でもあった垂井宿には追分道標があります。
関ヶ原合戦で重要な道となった分岐点です。
関ヶ原合戦に向けて東軍の池田輝政、福島正則ら約24,000の兵は清須城を出発。関ヶ原に行くためには木曽川を渡らなくてはなりません。
しかしそんな東軍の進軍を阻むため、西軍の織田秀信(三法師)配下の竹ヶ鼻城主杉浦重勝が木曽川の防衛に当たります。
西軍の鉄砲の攻撃、木曽川の砂地で馬の進軍が困難を極め、東軍を悩ませます。
なかなか木曽川を突破できない福島正則軍は加賀野井から船や筏を使って川を渡り、西軍を攻撃して翌日には竹ヶ鼻城を落城させました。
この時美濃路の起宿から福島正則軍は進軍したと言われています。
その後、池田輝政軍と合流して、織田信秀が守っていた岐阜城も落城させ、関ヶ原へ進軍していきます。
家康は赤坂の岡山に本陣を置き、関ヶ原の桃配り山、最後跡まで進軍。東軍が西軍を破り、家康軍が清須城へ凱旋したルートもこの美濃路でした。
ちなみに赤坂の岡山は、戦いに勝利したことで勝山と名前が変更になりました。
中山道に入る追分道標があるところは、お休み処「追分庵」が。
行ったときは営業していませんでした。
道標の説明。
現在の道標。
現代のキレイな看板。
この道標は垂井文化財アーカイブから引用すると、以下のように解説されていました。
垂井宿問屋・奥山文左衛門が宝永6年(1709)に建てた、中山道と美濃路の追分道標です。「是より右東海道大垣みち 左木曽街道たにぐみみち」と書かれています。
江戸時代に道標が立てられたのですね。
関ヶ原から中山道を経て、美濃路へ入る。
このルートが東軍を勝利に導いた重要な道だったのですね。
その後もお茶壺道中など重要な行事は美濃路が使われることになります。
北村美桂
岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。
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