武将愛 SAMURAI HEART

この記事は2022年11月25日記事のため内容が古い可能性があります。

足跡を巡る 伊達政宗の巻:前編

2022.11.25

「足跡を巡る」とは

戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。

「足跡を巡る 伊達政宗の巻:後編」はこちら

伊達政宗の誕生から婚姻まで

1567年、伊達輝宗の嫡男として米沢城で誕生。母は最上義光の妹・義姫、幼名は梵天丸。


ちなみに、生誕地は米沢城の4kmほど西にある舘山城だったという説も。


5歳の頃疱瘡により右目の視力を失うというアクシデントがあったものの、
11歳の時に元服し藤次郎政宗と名乗ったのち、13歳で愛姫と婚姻します。

米沢城跡
所在地:山形県米沢市丸の内1丁目4−13

舘山城跡
所在地:山形県米沢市舘山

伊達政宗、初陣から二本松城攻めまで

1581年に初陣を飾ると、1584年に伊達輝宗が隠居し18歳で家督を継承。
この頃の伊達氏は、蘆名氏との同盟が解消され、畠山氏や大内氏とは敵対関係に。
1585年に大内氏の居城で撫で斬りを行い、次いで畠山氏の二本松城へ攻め入ります。


その後、降伏するも許されなかった畠山義継が伊達輝宗を拉致する事件が勃発。
伊達政宗は父もろとも敵を射撃し、初七日法要の後に再び二本松城を攻めたといわれております。

伊達軍は人取橋の戦いで窮地に陥るも、1586年に相馬氏の斡旋で二本松城の無血開城に成功。
この頃伊達政宗は、伊達氏に従属していた松森城の国分氏家中で起きた騒ぎにも介入しています。


二本松城跡
所在地:福島県二本松市郭内3丁目164−1

松森城跡
所在地:宮城県仙台市泉区松森内町

惣無事令違反から奥州仕置まで

1587年、太閤となった豊臣秀吉が各地での私戦を禁ずる「惣無事令」を発令。
しかし、伊達政宗はこれを無視し最上氏・大崎氏・相馬氏・蘆名氏らと争いを続けます。
これに対し、自らの決定を反故にされた形の豊臣秀吉は東に向け出兵を決断。

小田原征伐に乗り出した豊臣秀吉のもとに参陣し帰順するか、それとも敵対するか。
伊達政宗は迷った末に石垣山の豊臣秀吉のもとへ赴き帰順することを選択。


蘆名氏を滅ぼし得た会津の地は没収されたものの、それ以外の本領は安堵され一安心。
しかし、1591年には葛西大崎一揆を扇動したとの疑いがかかり、岩出山へ減転封となりました。

石垣山城跡
所在地:神奈川県小田原市早川1383ー12

おまけ

一つ目は、伊達政宗の叔父である伊達政景が継いだ留守氏の居城・岩切城跡。
ちなみに、松森城主だった国分盛重も政宗の叔父にあたります。


二つ目は、伊達政宗の長男(側室の子)である後の伊達秀宗が生まれた村田城跡。
伊達政宗が岩出山へ転封となった後、その移動中立ち寄ったこの城で産声を上げたそうな。


岩切城跡
所在地:山形県米沢市御廟1丁目5−30

村田城跡
所在地:山形県米沢市丸の内1丁目4−13

 

伊達政宗の騎馬像をご紹介している記事はこちら→「武将像を巡る:騎馬像 其の二」

武将の生涯を写真で辿る!「足跡を巡る」その他のシリーズはこちらをクリック

 

地域カテゴリ

新井 良典

愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。

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