どこにいた家康 Vol.39 岩出山城
2023.10.15
2024.06.30
この連載は、公益財団法人日本城郭協会が定めた「日本100名城」の中で、
筆者が訪れたことがあるお城を紹介してゆくものである。
なお、城郭名は「日本100名城」の表記に合わせ記してゆく。
今回の史跡は、日本100名城の10番、山形県山形市の「山形城」。
1357年(延文2年)、羽州探題として山形の地に入った
斯波兼頼(しばかねより、最上氏初代)による築城。
その後、最上氏11代当主である最上義光(もがみよしあき)が
大幅な改修を施し、現在に残る城郭をかたちづくります。
また、1600年(慶長5年)長谷堂合戦で上杉軍が攻め寄せた際、
霞がかかって山形城を見渡せなかったという伝説があり、
これにより「霞城(かじょう)」という別名もつけられたそうです。
別名に関してはもう一つ、山形城三の丸への入口は「十一口」あり、
「十一口」を縦に並べ「吉」の字とし、「吉字城」とも呼ばれていたとか。
1622年(元和8年)、最上義光亡き後に最上氏が改易となると、
代わりに入った鳥居忠政がさらなる改修を施しました。
第二次世界大戦後に、本丸と二の丸が「霞城公園」となり、
1986年(昭和61年)には東大手門が復元。
その後も二の丸東大手門や一文字門などの建築物が復元されております。
・まずは、東側の出入口である「二の丸東大手門」からスタートしてゆきましょう
・「二の丸東大手門」の左右を見渡し、二の丸堀に映る石垣もチェック
・「二の丸東大手門」桝形を、別角度から二枚
・二の丸東大手門から二の丸へ入ると、目前には「最上義光騎馬像」が
桜の時季、早朝に訪れるとこんな感じです
・攻めてきた上杉軍に対し、陣頭指揮を執る姿をイメージした勇ましいお姿
・北側から見る「本丸東堀」と桜、右手土塁のある方が本丸です
・本丸東堀の側には、石垣に使われていた石の展示もあります
・解説板と刻印入り石の実物があり、この展示が非常にわかりやすい
・こちらは、「安政二年」という字が掘られた石
安政二年は1855年、幕末の水野氏時代に掘られたものだそうです
豊臣秀吉が小田原攻めを行ったのが1590年(天正18年)。
当時の奥羽地方(現在の東北地方)は最上義光とその甥にあたる伊達政宗、
上杉景勝などが争っておりましたが、この頃にはほとんどが豊臣秀吉に恭順。
その後豊臣政権の一員としてその地位を盤石とした最上義光でしたが、
1595年(文禄4年)に起こった「秀次事件」で悲劇に襲われます。
ことの始まりは1591年(天正19年)頃。
豊臣秀吉の甥である豊臣秀次(当時はまだ羽柴秀次)が
最上義光の三女・駒姫を気に入り是非側室に、と猛アピールしたとか。
まだ11歳くらいだった駒姫を手放したくない最上義光は断りましたが、
豊臣秀次はあきらめる様子はなし、ついには断り切れずに
「15歳になったら山形から送り出す」と承諾したといわれております。
そして1595年、15歳となった駒姫は最上義光のもとを離れ京へ。
しかし、同時期に豊臣秀次が豊臣秀吉と対立し切腹させられる事件が勃発。
事件に至る経緯には後継者問題や豊臣秀次自身の問題など諸説ありますが、
豊臣秀吉にとって豊臣秀次の存在が疎ましくなったのは確かなようで、
豊臣秀吉は豊臣秀次の正室・側室・子たちまでも根絶やしにしようと処刑を命じます。
この時、京について間もない駒姫も処刑されるという話を聞き、
最上義光は助命嘆願のため走り回り、徳川家康も豊臣秀吉へ取り成しをして協力。
豊臣秀吉も態度を軟化させ駒姫の処刑中止を命じますが、
命令の伝わる頃には既に処刑が終わっており、駒姫は帰らぬ人となっていました。
駒姫を失ったことで最上義光は食事ものどを通らぬくらい憔悴し、
正室であり駒姫の母である大崎夫人も後を追うように亡くなります。
このような仕打ちに激怒した最上義光は、豊臣家を見限り徳川家康との関係を強化。
1596年(文禄5年)に起こった慶長伏見大地震の際には、
豊臣秀吉ではなく徳川家康のもとに駆け付けた、といわれております。
伊達政宗の一生はどんな人生だった?足跡を辿ってみよう(前編)
・山形城見どころのひとつ、「本丸一文字門」とその周辺
1622年に入った鳥居氏の時代につくられた門を復元したものです
・こちらは南側から見る「本丸一文字門」と、もう少し西側
江戸時代後期に崩落した石垣がそのまま展示されております
・二の丸を北へ進み、北側の出入口「北不明門跡」へ
一枚目が内側から、二枚目が外側からの写真です
・北不明門跡から戻り南→西へ進むと見えてくる「二の丸西不明門跡」
・さらに南へ進み、二の丸南西端に「坤(ひつじさる)櫓跡」へ
・坤櫓跡から東へ進み、南側の出入口である「南大手門跡」から外へ
時間がなく断念しましたが、次回は二の丸堀沿いも歩いてみたいものです
・最後に、南大手門跡から東南方向へ20分ほどウォーキング
貴重な土の遺構である見事な「三の丸土塁」は必見です
公園東側にある「最上義光歴史館」には最上氏に関する展示があります。
山形城二の丸には国宝土偶である『縄文の女神』などを展示する
「山形県立博物館」があり、土偶好きは必見でしょう。
最上義光歴史館の「最上義光像」
山形城跡(霞城公園)
場所:山形県山形市霞城町1−7
電車でのアクセス:JR「山形駅」下車後、北方向へ徒歩約10分
車等でのアクセス:東北中央自動車道「山形中央IC」から東方向へ約10分
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新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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