100名城を巡る 「山形城」
2024.06.30
2023.10.15
この連載は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』で舞台となった地を
後追い、あるいは先読みしながらご紹介していくものである。
なお、タイトルにちなんで、記載は年齢問わず「家康」で統一する。
今回の史跡は、奥州に遠征した際に徳川家康が入った「岩出山城」。
もともとは「岩手沢」という地でしたが、伊達政宗が入る際に「岩出山」となりました。
1591年、一揆の扇動を疑われた伊達政宗が葛西・大崎旧領に移封されることに。
この時、奥州再仕置でこの地を訪れ検地などを行っていた徳川家康が岩手沢城に滞在。
その間に城の縄張りや改修などを行い、ある程度見通しが立った段階で
伊達政宗へ引渡したといわれております。
現在、城跡には「政宗公平和の像」の他、曲輪・土塁・大空堀などが残っており、
麓には藩校だった「有備館」、駅前には伊達政宗騎馬像もあるため、こちらもお忘れなく。
伊達政宗の誕生から婚姻までをご紹介→「足跡を巡る 伊達政宗の巻:前編」
伊達政宗の秀次事件と慶長出羽合戦をご紹介→「足跡を巡る 伊達政宗の巻:後編」
・SL広場に駐車し、坂を上って本丸跡へ
・南へ進み、「内門跡」から西の腰廓方面へ進みましょう
・「西の腰廓」にある、コンクリート製の「伊達政宗公之像」
勇ましい騎馬像ではなく平服姿のため、平和の像と呼ばれているとか
・西の腰廓付近の階段は通行止めだったので、本丸まで戻ってから下段のこども広場へ
・下段を北に進み、かつて「二の丸」だったさくら広場からさらに北へ
・赤い橋を渡り、その先にある「だるま広場」に到着
1590年、小田原城を手中に収めた豊臣秀吉は間を置かず奥州方面へ出発。
まずは宇都宮城へ入城し、奥羽の諸大名に対する仕置を実施します。
この仕置において、小田原へ参陣しなかったとして葛西氏・大崎氏らは改易、
私闘を禁止する「惣無事令」に違反したとして、伊達政宗は減封を命じられることに。
さらに1591年、改易された葛西氏・大崎氏の旧臣たちが反乱を起こし一揆が勃発。
この一揆を扇動したという密書が見つかり、伊達政宗は危機に陥るものの
「密書は偽造されたもの、本物の書状なら花押の鶺鴒(セキレイ)の目に穴を開けてある」
と主張、豊臣秀吉がこれを認めたため、ひとまず窮地を乗り越えました。
その後、豊臣秀吉は伊達政宗に一揆鎮圧を命じ、豊臣秀次・徳川家康らも出陣。
なんとか一揆を鎮圧するも、惣無事令違反・小田原遅参などの前科もあり
豊臣秀吉の伊達政宗に対する疑いは晴れなかったようです。
一連の行動から、伊達政宗は本来の所領の内から6郡を取り上げられ、
代わりに葛西・大崎の地を与えられることに。
72万石から58万石への減封となるだけでなく、戦で荒廃した地を与えられるなど
伊達政宗にとっては手痛い処置となってしまいました。
この後、伊達政宗は岩手山城を居城とし、仙台に移るまでの12年間この地を拠点とします。
・だるま広場の北側にある「北の空堀跡」
この見事な空堀は、岩出山城最大の見どころと言えるでしょう
・だるま広場へ戻り、南側に位置する「町章広場」をさらに南進
・八幡神社が祀られている「八幡平」には土塁が残っております
・二の丸まで戻り「北の物見跡」へ、残念ながら立ち入り禁止でした
・最後はおまけ、JR有備館駅に建つ「伊達政宗公騎馬像」
伊達政宗のその他の武将像をご紹介した記事はこちら
(リンク先の中盤にてご覧いただけます)
「唐入り」がはじまり、豊臣秀吉自身も海を渡ると言い出した前回。
必死に諫める石田三成と、腹を切る覚悟で対峙した徳川家康の姿が印象的でしたね。
次回は「太閤、くたばる」という、なかなかショッキングな副題。
我に返りかけた豊臣秀吉でしたが、のちの豊臣秀頼が誕生し再び先行きは不透明に。
徳川家康と豊臣秀吉の最後の会話、豊臣家の舵取りをしてゆく茶々との駆け引き、
関係良好な石田三成とどのように決裂してゆくのか、など注目したいと思います。
仙台城の「伊達政宗公騎馬像」
岩出山城
場所:宮城県大崎市岩出山城山
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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