武将愛 SAMURAI HEART

この記事は2022年10月30日記事のため内容が古い可能性があります。

足跡を巡る 上杉謙信の巻:後編

2022.10.30

「足跡を巡る」とは

戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。

「足跡を巡る」シリーズはこちら

上杉謙信(輝虎)、臼井城の戦いと越相同盟

これまでの上杉謙信の軌跡を振り返る→「足跡を巡る 上杉謙信の巻:前編」はこちら

「足跡を巡る 上杉謙信の巻:中編」はこちら

1566年、上杉謙信(輝虎)は北条方についていた千葉氏の臼井城攻略に乗り出すも失敗。
これを境に関東で輝虎離れが相次ぎ、直臣や重臣が離反するなど苦しい立場に。


その後、争っていた上杉氏と北条氏は同盟、北条氏から三郎を養子として迎えます。
この三郎には自身が名乗っていた景虎の名を与え、自らは不識庵謙信を称しました。

臼井城跡
所在地:千葉県佐倉市臼井田900

越中一向一揆と対北条氏

同盟相手となっていた北条氏ですが、北条氏政の代になると同盟は破棄され再び敵同士に。
さらに、北条氏と同盟を結びなおした武田信玄が越中で一向一揆を煽動。
謙信は越中に赴き富山城の戦いなどで勝利するも、なかなか一揆鎮圧には至りませんでした。


1573年になり北条氏が上野に侵攻開始すると、謙信は休む間もなく翌年に関東へ。
度々出陣するも金山城を攻め落とせないなど、謙信の関東における存在感は薄れてゆく結果に。


富山城跡
所在地:富山県富山市本丸1−1

新田金山城跡
所在地:群馬県太田市金山町40−106

上杉謙信、越中・能登の平定から最期まで

1576年に入ると本願寺、さらに足利義昭が間に入り北条氏や武田氏とも和睦。
織田信長討伐を将軍義昭より期待された謙信は、上洛するため西進することに。
破竹の勢いで増山城などを攻め落とし、越中の平定に成功します。

次いで能登国へ侵攻し畠山氏の七尾城を包囲。一旦仕切り直した後手中に収め、
さらに救援に来た織田軍も手取川で破り、能登の平定を決定的にしました。


上洛の準備が整った…かに見えた謙信でしたが、帰還した春日山城の厠で昏倒。
意識が戻らずそのまま帰らぬ人に。享年49、死因は脳溢血だと言われております。

七尾城跡
所在地:石川県七尾市古城町

おまけ

一つ目は、志半ばにして倒れた軍神・上杉謙信が眠る上杉家廟所。
御館の乱の末に家督を継いだ景勝や江戸時代の名君・鷹山などのお墓もあります。


二つ目は、上杉家廟所にほど近い米沢城内にある上杉謙信の座像を。
近くにある景勝&兼続像と同じく、関東方面を見据えております。


最後は、2019年にオープンした謙信公武道館の敷地内にある上杉謙信公騎馬像。
高さ7メートルを超える力作、人も馬も躍動感あふれる像ですね。


上杉家廟所
所在地:山形県米沢市御廟1丁目5−30

米沢城跡
所在地:山形県米沢市丸の内1丁目4−13

謙信公武道館
所在地:新潟県上越市戸野目古新田375

新井 良典

愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。

この記事へのコメントや情報提供をお待ちしています

ログイン してコメントを投稿して下さい。
ユーザー登録がお済みでない方は 登録画面 にて登録後、コメントを投稿して下さい。

東北地方の記事

人気記事

PR

武将名や合戦場所などで検索

地域カテゴリ一覧

この記事の後によく読まれているおすすめ記事

バックナンバー記事

次の10件を見る

戦国武将の生涯をたどる
  • 信長公の生涯をたどる

    天下布武その生涯をめぐる
    <勝幡〜清洲〜岐阜〜安土>

  • 秀吉公の生涯をたどる

    日本一出世 その生涯をめぐる
    <名古屋〜長浜〜大阪〜京都>

    豊臣秀吉年表へ
  • 家康公の生涯をたどる

    天下泰平までの道のりをめぐる
    <岡崎〜浜松〜江戸〜駿府>

    徳川家康年表へ
  • 加藤清正年表へ