100名城を巡る 「山形城」
2024.06.30
2022.10.30
戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。
これまでの上杉謙信の軌跡を振り返る→「足跡を巡る 上杉謙信の巻:前編」はこちら
1566年、上杉謙信(輝虎)は北条方についていた千葉氏の臼井城攻略に乗り出すも失敗。
これを境に関東で輝虎離れが相次ぎ、直臣や重臣が離反するなど苦しい立場に。
その後、争っていた上杉氏と北条氏は同盟、北条氏から三郎を養子として迎えます。
この三郎には自身が名乗っていた景虎の名を与え、自らは不識庵謙信を称しました。
臼井城跡
所在地:千葉県佐倉市臼井田900
同盟相手となっていた北条氏ですが、北条氏政の代になると同盟は破棄され再び敵同士に。
さらに、北条氏と同盟を結びなおした武田信玄が越中で一向一揆を煽動。
謙信は越中に赴き富山城の戦いなどで勝利するも、なかなか一揆鎮圧には至りませんでした。
1573年になり北条氏が上野に侵攻開始すると、謙信は休む間もなく翌年に関東へ。
度々出陣するも金山城を攻め落とせないなど、謙信の関東における存在感は薄れてゆく結果に。
富山城跡
所在地:富山県富山市本丸1−1
新田金山城跡
所在地:群馬県太田市金山町40−106
1576年に入ると本願寺、さらに足利義昭が間に入り北条氏や武田氏とも和睦。
織田信長討伐を将軍義昭より期待された謙信は、上洛するため西進することに。
破竹の勢いで増山城などを攻め落とし、越中の平定に成功します。
次いで能登国へ侵攻し畠山氏の七尾城を包囲。一旦仕切り直した後手中に収め、
さらに救援に来た織田軍も手取川で破り、能登の平定を決定的にしました。
上洛の準備が整った…かに見えた謙信でしたが、帰還した春日山城の厠で昏倒。
意識が戻らずそのまま帰らぬ人に。享年49、死因は脳溢血だと言われております。
七尾城跡
所在地:石川県七尾市古城町
一つ目は、志半ばにして倒れた軍神・上杉謙信が眠る上杉家廟所。
御館の乱の末に家督を継いだ景勝や江戸時代の名君・鷹山などのお墓もあります。
二つ目は、上杉家廟所にほど近い米沢城内にある上杉謙信の座像を。
近くにある景勝&兼続像と同じく、関東方面を見据えております。
最後は、2019年にオープンした謙信公武道館の敷地内にある上杉謙信公騎馬像。
高さ7メートルを超える力作、人も馬も躍動感あふれる像ですね。
上杉家廟所
所在地:山形県米沢市御廟1丁目5−30
米沢城跡
所在地:山形県米沢市丸の内1丁目4−13
謙信公武道館
所在地:新潟県上越市戸野目古新田375
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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