100名城を巡る「金山城」
2024.09.28
2022.09.30
戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。
川中島の戦い合間を縫い、1559年に上洛し天皇・将軍に拝謁した景虎。
翌年には椎名氏からの要請に応じ、神保氏が籠もった増山城を攻め落とします。
1560年になると、今川義元が織田信長に討たれ甲相駿三国同盟に亀裂が入る事態に。
これを好機と、景虎は翌年に北条氏征伐のため関東への出陣を決意。
北条方の諸城を次々と攻め落とし、厩橋城からさらに進軍してゆきます。
古河御所を落とし、小田原城を包囲するなど快進撃を続けた景虎でしたが、
武田信玄が不穏な動きを見せるなどしたため、やむなく撤退することとなりました。
この後、景虎は上杉憲政の要請で関東管領に就任、名を政虎と改めます。
増山城跡
所在地:富山県砺波市増山
厩橋城跡(前橋城跡)
所在地:群馬県前橋市大手町1丁目1
古河御所跡(古河城跡)
所在地:茨城県古河市鴻巣399−1 (石碑:古河公方公園)
茨城県古河市桜町1−35 (土塁)
茨城県古河市中央町3丁目9−8(移築門:福法寺)
政虎が関東管領となった1561年、いよいよ上杉家と武田家最大の戦いである第四次川中島の戦いが開始。
政虎は妻女山から襲いかかり、武田方の重臣を討つなど大打撃を与えるも、
武田軍の反撃にあい決着までは至りませんでした。
こちらは、妻女山のふもとにある会津比売神社の「謙信鞍掛の松」。
妻女山への道すがらには、槍尻で地面を突き水を出したという「謙信槍尻之泉」も。
激戦の後も休む間はなく、政虎は北条氏を制するためたびたび関東へ。
この間、名を改め政虎から輝虎に。1564年に第五次川中島の戦いが終わり
武田氏との戦いは一段落しますが、輝虎は飯山城を築き警戒をさらに強めます。
関東管領に就任した後も、対武田やら対北条やらで戦続きの輝虎。
ちなみに、子のなかった輝虎はこの時期に喜平次、後の景勝を養子としました。
妻女山
所在地:長野県長野市松代町岩野
長野県長野市松代町149(謙信鞍掛の松:会津比売神社)
飯山城跡
所在地:新潟県上越市五智1丁目22
後に上杉家の家督を継ぐ景勝。その生誕地といわれるのがこの樺沢城跡。
遺構がよく残っているそうですが、夏場は木や草が生い茂っておりました…
こちらも生誕地といわれる坂戸城跡のふもとには、若き日の景勝・直江兼続の像が。
それぞれ喜平次・与六と呼ばれていた頃の、勇ましく野望に満ちたお姿かと思います。
樺沢城跡
所在地:新潟県南魚沼市樺野沢
喜平次と与六像
所在地:新潟県南魚沼市坂戸392(銭淵公園)
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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