どこにいた家康 Vol.43 佐和山城
2023.11.10
2021.02.26
戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。
1568年に箕作城の戦いで活躍し、伊勢侵攻では阿坂城攻略を担当。
秀吉は負傷するも阿坂城を落城させ、信長の大河内城攻略へつなげます。
負傷が癒えたのも束の間、1570年の金ヶ崎ではしんがりを勤め上げた後
姉川の戦いの後には横山城を任され、浅井氏へ睨みをきかせる立場に。
大河内城跡
所在地:三重県松阪市大河内町470
1572年、秀吉は織田家重臣の丹羽長秀と柴田勝家から一文字ずつ拝借し、
羽柴へと改名。重臣二人も、この申し出に悪い気はしなかったでしょう。
改名で心機一転、1573年に一乗谷城の戦いで朝倉氏を滅ぼし、
小谷城の戦いでは京極丸を攻め落とす活躍。浅井氏に引導を渡します。
小谷城跡(京極丸跡)
所在地:滋賀県長浜市湖北町伊部
小谷城での功により近江三郡を与えられた秀吉は、ついに城持ちに。
今浜の地を「長浜」と変え、長浜城主としてこの地を治めます。
このとき秀吉は、浅井の旧臣を採用するなど人材登用を積極的に行い、
観音寺では、後の石田三成の才能を見出したとも言われています。
鷹狩りの帰りに寄った観音寺で、臨機応変に出された「三献の茶」。
秀吉と三成、只者ではないこの二人の出会いの真相やいかに。
長浜城(豊公園)
所在地:滋賀県長浜市公園町10−10
観音寺
所在地:滋賀県米原市朝日1342
秀吉と佐吉出会いの像(長浜駅東口)
所在地:滋賀県長浜市北船町2
筑前守に任官された後、1575年には長篠の戦いに従軍し勝利に貢献。
しかし、1577年に信長の命で柴田勝家の救援に向かったはいいものの
意見が対立し無断で帰還。信長の逆鱗に触れ秀吉はピンチに陥ります。
謀反も疑われた秀吉ですが、信貴山城の戦いで功績を上げ汚名を雪ぎ、
中国攻めの大役も任される立場に。その期待に応え、竹田城を攻め落とし
姫路城を手に入れるなど、着々と足場を固めてゆきます。
竹田城跡
所在地:兵庫県朝来市和田山町竹田古城山169番地
其の一は、石田三成の出生地だと言われている地に建つ石田会館。
観音寺や産湯の井戸など、付近には三成関連の史跡が盛りだくさん。
其の二は、長浜城のすぐ近くにある秀吉ゆかりの豊国神社。
加藤清正にも縁深く、清正が献じたという虎石や像もあります。
石田会館(石田三成出生地)
所在地:滋賀県長浜市石田町575
豊国神社
所在地:滋賀県長浜市南呉服町6-37
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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