続100名城を巡る 「赤木城」
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〜過去の取材記事の投稿となります〜
京都では、「お西さん」の通称で知られている「西本願寺」。
京都駅から徒歩圏内にあり、桃山文化の遺構、京都観光では必見の建築物です。
京都にある本願寺といえば、『西本願寺』と『東本願寺』。
『西本願寺』は、二つある本願寺のひとつで、浄土真宗本願寺派の本山。
正式には「龍谷山本願寺」といい、こちらの門は総門と呼ばれる門です。
ちなみにもう一つの本願寺である『東本願寺』も浄土真宗ですが、浄土真宗は『真宗』ともいわれるため東本願寺は、真宗大谷派と称し、正式名称は『真宗本廟』といいます。
どちらも親鸞聖人が開祖の浄土真宗ですが、流派が違います。
京都にはなぜ『本願寺』がふたつあるのでしょうか。
一説によると、ふたつに分かれたきっかけとなったのは、織田信長にあるといわれています。
織田信長が引き起こした石山戦争。
とても有名ですよね。織田信長が大阪の石山本願寺と争った戦いです。
この戦いが関係しているというのです。
当時、石山本願寺は浄土真宗の最大の拠点となっていて、全国に多数の信徒がいる宗教最大勢力でした。
その頂点にいたのは、顕如上人(けんにょしょうにん)という僧侶でした。
石山本願寺派、顕如上人は、弟子である僧侶のほかにも、多くの民衆からも尊ばれていました。
特に農民の信徒が多かったのですが、それは、生活が苦しかった農民でも、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えると、その苦しみから解放され、現世だけではなく、来世も幸せになれるという教えがあったからです。
(ちなみに西本願寺の阿弥陀堂は、2022年3月まで修復工事が予定されています)
そんな本願寺派の信徒たちは、全国各地の本願寺派寺院を拠点にし結束して、権力に抵抗する反乱を起こすようになりました。
これが一向一揆と呼ばれるものです。
信長は、石山本願寺がある場所を軍事的にも、政治的にも、そして経済的にも、どうしても手に入れたかったため戦いましたが、石山本願寺は信長の手に落ちることはありませんでした。
最終的に石山本願寺との和睦を選んだ織田信長は、正親町天皇(おおぎまちてんのう)を立てて話を進めましたが、本願寺の僧侶の間で、和睦をするかしないかで意見が分かれてしまい、なかなか決まらずにいました。
その後、結果的に本願寺内で意見がまとまらないうちに、浄土真宗の勢力を弱めたいと思っていた徳川家康によって、本願寺内で意見がちがう両者を、さらに意見が食いちがうような策を高じられ、結果的に本願寺は西と東に分かれてしまったのです。
これが、『本願寺』をふたつに分けてしまったきっかけといわれています。
まとめ
ふたつに分かれてしまった本願寺。
それでも、開祖親鸞聖人による教えに変わりありません。
流派が違っても、人々が幸せを願う気持ちは、戦国時代も現在も同じ、ということを忘れずにいたいものですね。
京都市下京区堀川通花屋町下ル
京都駅 徒歩15分
市営バス
9・28・75番『西本願寺前』下車すぐ
拝観料: 無料
開催時間:5:30~17:00
rico
教育系ライターricoです。 公立小学校の教員をしていました。戦国時代の強い姫たちが好きです。特に江のファン。読んでくださる方の心にイメージが広がるような文章を紡いでいきたいと思っています。
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