武将愛 SAMURAI HEART

京都の本願寺が西と東のふたつに分かれてしまった理由とは

2022.04.25

〜過去の取材記事の投稿となります〜

 

京都では、「お西さん」の通称で知られている「西本願寺」。

京都駅から徒歩圏内にあり、桃山文化の遺構、京都観光では必見の建築物です。

 

京都に東西ふたつの本願寺

京都にある本願寺といえば、『西本願寺』と『東本願寺』。

『西本願寺』は、二つある本願寺のひとつで、浄土真宗本願寺派の本山。

正式には「龍谷山本願寺」といい、こちらの門は総門と呼ばれる門です。

ちなみにもう一つの本願寺である『東本願寺』も浄土真宗ですが、浄土真宗は『真宗』ともいわれるため東本願寺は、真宗大谷派と称し、正式名称は『真宗本廟』といいます。

どちらも親鸞聖人が開祖の浄土真宗ですが、流派が違います。

 

織田信長が本願寺が分かれたきっかけに?

京都にはなぜ『本願寺』がふたつあるのでしょうか。

一説によると、ふたつに分かれたきっかけとなったのは、織田信長にあるといわれています。

 

織田信長が引き起こした石山戦争。

とても有名ですよね。織田信長が大阪の石山本願寺と争った戦いです。

この戦いが関係しているというのです。

 

当時、石山本願寺は浄土真宗の最大の拠点となっていて、全国に多数の信徒がいる宗教最大勢力でした。

その頂点にいたのは、顕如上人(けんにょしょうにん)という僧侶でした。

石山本願寺派、顕如上人は、弟子である僧侶のほかにも、多くの民衆からも尊ばれていました。

特に農民の信徒が多かったのですが、それは、生活が苦しかった農民でも、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えると、その苦しみから解放され、現世だけではなく、来世も幸せになれるという教えがあったからです。

(ちなみに西本願寺の阿弥陀堂は、2022年3月まで修復工事が予定されています)

 

そんな本願寺派の信徒たちは、全国各地の本願寺派寺院を拠点にし結束して、権力に抵抗する反乱を起こすようになりました。

これが一向一揆と呼ばれるものです。

信長は、石山本願寺がある場所を軍事的にも、政治的にも、そして経済的にも、どうしても手に入れたかったため戦いましたが、石山本願寺は信長の手に落ちることはありませんでした。

 

ふたつに分かれた本願寺その理由とは?

最終的に石山本願寺との和睦を選んだ織田信長は、正親町天皇(おおぎまちてんのう)を立てて話を進めましたが、本願寺の僧侶の間で、和睦をするかしないかで意見が分かれてしまい、なかなか決まらずにいました。

その後、結果的に本願寺内で意見がまとまらないうちに、浄土真宗の勢力を弱めたいと思っていた徳川家康によって、本願寺内で意見がちがう両者を、さらに意見が食いちがうような策を高じられ、結果的に本願寺は西と東に分かれてしまったのです。

これが、『本願寺』をふたつに分けてしまったきっかけといわれています。

 

まとめ

ふたつに分かれてしまった本願寺。

それでも、開祖親鸞聖人による教えに変わりありません。

流派が違っても、人々が幸せを願う気持ちは、戦国時代も現在も同じ、ということを忘れずにいたいものですね。

 

【西本願寺アクセス】

京都市下京区堀川通花屋町下ル

京都駅 徒歩15分

市営バス

9・28・75番『西本願寺前』下車すぐ

 

拝観料: 無料

開催時間:5:30~17:00

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noriko

はじめまして。徳川秀忠とお江夫妻のファンnorikoです。 ライティングの仕事をさせていただいています。 読んでくださった方が、当時に想いを馳せることができるような、そんなコラムを書いていきたいと思っています。

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