愛知の城を巡る 山中城
2024.04.20
2020.05.23
戦国武将の生涯を、写真とともに辿っていくシリーズ。
物事が起こった年代、諸説ある動機や人間関係などについては
深く考えずにざっくりとふれていく連載である。
1560年5月12日、今川義元が出陣。17日に沓掛城へ入ります。
18日には、松平元信に大高城へ兵糧を届けさせ、着々と侵攻準備。
沓掛城跡(沓掛城址公園)
所在地:愛知県豊明市沓掛町東本郷11
大高城跡
所在地:愛知県名古屋市緑区大高町城山
今川義元来たるの報に、織田家中は籠城か出撃かで大混乱。
この様を静観していた織田信長は、19日明朝に丸根・鷲津の両砦が
今川方に攻撃されたとの報を聞くと、突如として熱田神宮へ進行。
戦勝祈願を済ませると、善照寺砦に入り決戦に備えます。
熱田神宮
所在地:愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目1−1
信長は密かに今川方の動きを察知、桶狭間方面へ進軍を開始。
この間、今川方は丸根・鷲津の両砦を陥落、中嶋砦でも勝利します。
勢いに乗る今川方でしたが、この後訪れた豪雨とともに事態は急変。
悪天に乗じて織田方が今川本陣を攻撃、今川義元を討ち取りました。
桶狭間の戦いは、どこで、どのように起こったのか。
古戦場跡は名古屋市と豊明市にあり、未だにはっきりとしません。
こちらと上の両雄像が、名古屋市の「古戦場公園」。
こちらが、豊明市の「古戦場伝説地」。
はたして、義元が本陣を置いたのはどちらだったのでしょうか。
桶狭間古戦場公園
所在地:愛知県名古屋市緑区桶狭間北3丁目1001
桶狭間古戦場伝説地
所在地:愛知県豊明市栄町南舘11
信長は、桶狭間での勝利後に間を空けずに西美濃へ侵攻。
しかし、斎藤方の反撃にあえなく敗北、戦果なく撤退します。
一方その頃、西三河では松平元康が尾張へ侵攻を開始。
対する信長も、梅ヶ坪城を手始めに、挙母城まで攻め落としました。
元康はこのくらいの頃から、信長との同盟を模索し始めます。
そして、後に清洲同盟を結び、お互い背中を預ける関係に。
挙母城跡
所在地:愛知県豊田市小坂本町7丁目90
其の一は、桶狭間古戦場公園近くの長福寺。
境内には供養塔など、近くには瀬名氏俊の陣所跡があります。
其の二は、桶狭間古戦場伝説地近くの高徳院。
こちらには、義元仏式の墓や本陣跡碑などがあります。
長福寺
所在地:愛知県名古屋市緑区桶狭間427
高徳院
所在地:愛知県豊明市栄町南舘3−2
新井 良典
愛知県出身、三重県在住の社会保険労務士。一番好きな武将は大谷吉継公。現代にも活かせる人財づくりを戦国武将から学ぶ「いい武将研究会」を主催し、城や戦国武将に関する執筆や講演活動も行っている。
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