武将愛 SAMURAI HEART

この記事は2017年9月25日記事のため内容が古い可能性があります。

今川義元が、桶狭間の戦いに出陣した城「沓掛城」

2017.09.25

「沓掛城」は桶狭間の戦い前夜、今川義元がここで軍評定を開き、大高城への兵糧入れや各武将の部署の再確認を行い、

桶狭間に出陣したと言われているお城です。

現在は「沓掛城址公園」として整備され、蛍の名所ともなっています。
全く城跡がないかというと、そうでもなく堀の跡などがちゃんと残っているので遺構も楽しめる公園です。

まとめページ:世紀の大番狂わせ桶狭間の戦いを紐解く

沓掛城の歴史

沓掛城の歴史は古く、応永年間(1394年~1428年)と言われています。
この場所は北方の長久手・岩崎方面からの街道と鎌倉往還とが交差するところで、交通の要となっていたようです。

近藤氏がこの城の歴代城主でした。戦国時代に入ると三河の松平広忠(家康の父)の傘下に入っていましたが、途中で織田信秀の傘下に入ります。

当時は三河に侵略しようとする織田家の勢力も強い時期でした。
織田家の三河侵略の勢いは安祥城まで落とせていましたが、現在の岡崎市の小豆坂の戦いで破れ撤退。
しかも松平家は清康、広忠の死で求心力を失っている時に今川家に従う形となり、徳川家康が人質に出されるということになっている時期でした。

 

「桶狭間の戦い」当時の沓掛城主は9代目の近藤景春

織田家から今川義元に寝返った鳴海城主の山口教継の誘いで、今川家に寝返ります。
沓掛城では大将の今川義元が合戦前夜に軍議を開き、出立します。しかし、今川義元が討ち取られてしまい、数日後に織田家に攻められ沓掛城は落城。
近藤氏は討死してしまいます。

その後は織田家支配から、親戚筋の川口宗勝が城主となりますが、関ケ原合戦で西軍に味方したために伊達政宗預かりとなって廃城となりました。

駐車場も完備されたキレイな史跡「沓掛城」

沓掛城址公園は公園となっているだけあって、非常にきれいに整備されています。
駐車場もトイレも完備されているので、史跡巡りをしている途中には非常に嬉しい環境ではないでしょうか。

看板があり、コチラで情報を収集することも可能です。

駐車場から入ってすぐに堀の跡がしっかりと見えます。実はこの駐車場は元・侍屋敷跡だったようです。
侍屋敷もあって、これだけ深くて幅のある堀があったと思うと、立派なお城だったのかなと思いますね。

公園内に入ると広場がどーんとあります。
ここが本丸に相当する場所とのこと。かなり大きな本丸ですね。

こちらはズームで撮った諏訪曲輪跡。

駐車場は裏手になってしまいますが、こちらが大手門跡。
ここがお城としては正面ということになりますね。

こちらが二の丸跡。広場すぎてよくわからないですが、公園内にお城の要素がしっかり詰まっているのがスゴイですよね。

堀にビオトープが作られていて、6月になるとホタル観賞もできるそうですよ。

まとめページ:世紀の大番狂わせ桶狭間の戦いを紐解く

 

沓掛城址公園へのアクセス

住所:愛知県豊明市 沓掛町東本郷11

<アクセス>
名鉄・前後駅からバスで15分(名鉄バス)
徒歩で15分

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北村美桂

岐阜県出身。東海三県の歴史旅ブログ「カツイエ.com」の運営を行うWebライター。

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