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徳川家康 家康公の生涯をたどる
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~苦難の人質時代から天下泰平まで家康公の生涯を旅する~
出生 1537年 尾張国愛知郡 中村

出生 1537年 尾張国愛知郡 中村 出生 1537年 尾張国愛知郡 中村

生誕地であり「厭離穢土・欣求浄土」の使命。天下統一への「始まりの場所」生誕地であり「厭離穢土・欣求浄土」の使命。天下統一への「始まりの場所」

三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の待望の嫡男として、岡崎城で産声を上げた徳川家康。幼名は竹千代と呼ばれ大切に育てられるはずだった。 しかし、戦国時代らしく、生まれた時から波乱万丈の人生がスタート。当時の三河は、隣国尾張の織田家と、駿府を支配する大大名の今川家に挟まれた状態。徳川家康は…続きを読む
三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の待望の嫡男として、岡崎城で産声を上げた徳川家康。幼名は竹千代と呼ばれ大切に育てられるはずだった。 しかし、戦国時代らしく、生まれた時から波乱万丈の人生がスタート。当時の三河は、隣国尾張の織田家と、駿府を支配する大大名の今川家に挟まれた状態。徳川家康はわずか6歳で実母との生き別れ、7歳で人質として駿府の今川家に送られ、8歳で父親が家臣に殺されるなど、次々と試練を経験する。10歳にもならないうちに、両親を失い天涯孤独となってしまった。
しかも人質として護送される途中、家臣の裏切りで織田家に奪われてしまうなど、自分が道具のように扱われる時代。その2年後に織田家より今川家に取り返され、駿府で臨済宗の住職・太原雪斎などから教育を受ける。将来・今川家の家臣として活躍することを期待され、大切に育てられた。 15歳で元服し、名前を今川義元の1文字をもらい「元康」と改名するが、また事態が変わる。「桶狭間の戦い」で織田家が今川義元軍を破ったのだ。 徳川家康はその時19歳。今川軍の要所である大高城に食料を運ぶ役目を果たしていたが、まさかの主君の死。徳川家康自身も命が危ない状況だった。 追い詰められ、自決を覚悟し駆け込んだ松平家の菩提寺の大樹寺の住職に「厭離穢土 欣求浄土」の言葉をもらう。戦乱の世を終わらせ、平和な世の中を作る役目があると住職に諭され、命を救われた場所だ。以降、徳川家康の旗印として自身に刻みつけた使命。その後、今川軍から岡崎城を取り戻し独立。22歳の時に「家康」に改名。三河一向一揆をおさえ、三河を平定した。 長い今川家の支配から逃れることになった。岡崎にいた時間は少ない。しかし、天下統一にむけての一歩が始まった大事な場所なのだ。

information 家康公出生の三河には数多くの史跡が残るinformation 家康公出生の三河には数多くの史跡が残る

出世 1573年 近江国坂田郡 長浜

出世 1573年 近江国坂田郡 長浜出世 1573年 近江国坂田郡 長浜

江戸時代は「出世城」と呼ばれるも、当時の徳川家康にとっては生命の危機が2回もあった場所。江戸時代は「出世城」と呼ばれるも、当時の徳川家康にとっては生命の危機が2回もあった場所。

徳川家康の浜松時代はまさに天下取りへの足がかりとなる期間。29歳~45歳までの17年間を浜松で過ごした。歴代城主の中には幕府の要職に登用された者も多いことから、浜松城はのちに「出世城」と呼ばれるようになった。浜松に住む人は、「のんびりしていて気候がいいから、徳川家康はこの場所を気に入っていたのではないか」という…続きを読む
徳川家康の浜松時代はまさに天下取りへの足がかりとなる期間。29歳~45歳までの17年間を浜松で過ごした。歴代城主の中には幕府の要職に登用された者も多いことから、浜松城はのちに「出世城」と呼ばれるようになった。浜松に住む人は、「のんびりしていて気候がいいから、徳川家康はこの場所を気に入っていたのではないか」という。 徳川家康にとっての浜松は、天下統一のためのステップであり、試練を味わう場でもあった。それは今川氏、上洛を目指す武田氏との戦いはゆうに14年にもおよぶ長い戦を制する必要があったためだ。 まずは三河から東進し今川家の制圧。その後、武田家を倒すため、1570年に岡崎城を長男の信康に譲り、三方原台地の東南端に浜松城を築城する。 その後、関ヶ原の合戦よりも激闘だったと言われる三方ヶ原の戦いで、武田家3万の兵に対し、1万の兵で挑み大敗を期したことは有名だ。たくさんの家臣を失い、自分の命も危うくなるほど追い詰められた。その時の失敗を忘れないよう、「しかみ像」を生涯持ち歩いたことも有名。 しかし、その間に武田信玄が死去。3年後、長篠の戦いで織田・徳川連合軍として武田軍に勝利。ようやく駿府・遠江を手に入れた。 そして再び徳川家康は命を落としかける事件が起こる。それは同盟を結んでいた織田信長が、本能寺の変で織田信長が殺されたのだ。その時大阪にいた徳川家康も命を狙われることになり、服部半蔵とともに「伊賀越」をして移動した。 そして、織田家vs豊臣秀吉という構図になる中、小牧・長久手の戦いでは豊臣秀吉に勝利するも、織田信雄の判断により豊臣秀吉の重鎮として取り上げられることになることになる。 以降浜松・駿府など5カ国の大名になるも、豊臣秀吉の命により江戸へ国替えになってしまう。 以降、江戸時代には入城すると江戸の要人になる「出世城」として全国の大名が城主になりたい城として人気となる。今では、出世旅PRが行われ、縁起のいい町として知られている。

information 家康公の糧となった試練を感じれる街information 家康公の糧となった試練を感じれる街

天下 1583年 摂津国東成郡 大阪

天下 1583年 摂津国東成郡 大阪天下 1583年 摂津国東成郡 大阪

城下町作りの力量を発揮、発展。世界最大の都市の基盤を作る城下町作りの力量を発揮、発展。世界最大の都市の基盤を作る

地方の城下町から、現在の巨大都市への大改造を実現した徳川家康。初めて関東に入ったのは1590年のこと。北条氏が小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされ、開拓の命を受けた徳川家康は、関東地方の中心となるべき居城を江戸城に決めた。 この当時、完成しつつあった家康の五カ国の領国を取り上げ、明らかに…続きを読む
地方の城下町から、現在の巨大都市への大改造を実現した徳川家康。初めて関東に入ったのは1590年のこと。北条氏が小田原征伐で豊臣秀吉に滅ぼされ、開拓の命を受けた徳川家康は、関東地方の中心となるべき居城を江戸城に決めた。 この当時、完成しつつあった家康の五カ国の領国を取り上げ、明らかに劣勢な関東に国替えさせられてしまう。当時の江戸は湿地が多く、現在の東京の中心まで海。すでに50代となり、築き上げたものも奪われてしまった徳川家康。当時の江戸の街づくりも難航を極めたものの、5カ国時代に培った街づくりの実績をさらに発展させ、現在の東京の町の原型を作った。 1603年、関ヶ原の戦い後、征夷大将軍になった直後に江戸城の建築に取り掛かかった。江戸城の基本設計は藤堂高虎が行い、工事は池田輝政、福島正則、加藤清正、黒田長政らが行ったと言われている。名だたる大名によって築城された江戸城は、全国一の近代的城郭へと変貌を遂げ、徳川250年の全国支配の拠点として輝き続けた。 振り返ってみると、北条氏時代の江戸城はお世辞にも立派とはいえない簡素なものだった。城下町作りのノウハウを活かし発展させ、18世紀には世界最大の都市となるまでになった。400年経った今でも、そのあしあとは東京の各所に見られる。特に皇居周りは、二の丸あたりでは梅を鑑賞したり、ランニングのメッカとして人々の憩いの場として愛されている。

information 世界都市東京の基盤をつくった家康公information 世界都市東京の基盤をつくった家康公

晩年 1598年 山城国紀伊郡 伏見

晩年 1598年 山城国紀伊郡 伏見晩年 1598年 山城国紀伊郡 伏見

人生で3回過ごした駿府。大御所時代に築いた文化の数々人生で3回過ごした駿府。大御所時代に築いた文化の数々

駿府で家康は生涯、竹千代時代と徳川家康時代、大御所時代の3回を過ごしている。余生をここで過ごしたことから、地域の人にとっては「人生で最も気に入っていた場所なのではないか」という自負がある。温暖な寄稿、豊かな自然。大好きな鷹狩をして過ごす穏やかな時間を駿府で過ごした。そのためか戦のあとではなく、文化の成熟度がみられる…続きを読む
駿府で家康は生涯、竹千代時代と徳川家康時代、大御所時代の3回を過ごしている。余生をここで過ごしたことから、地域の人にとっては「人生で最も気に入っていた場所なのではないか」という自負がある。温暖な寄稿、豊かな自然。大好きな鷹狩をして過ごす穏やかな時間を駿府で過ごした。そのためか戦のあとではなく、文化の成熟度がみられる史跡や郷土品が多くみられ、その文化が今にも引きつがれている。 初めて徳川家康が駿府に来たのは、竹千代と呼ばれる少年だった頃。今川家の人質として駿府にやってきた。 人質と言っても無碍にされるわけではなく、今川家を支える重鎮としての成長を期待し、たくさんの教育をつけ大切に育てた。その時に臨済宗の住職である太原雪斎からも教えを受けている。 元服も駿府で行い、結婚、嫡男をもうけることにもなったが今川家が桶狭間の戦いで敗戦。それにより今川家から独立し対立の結果、今川家の領土は徳川家のものとなる。 しかしその戦乱の中、駿府は戦火で壊滅状態に陥っていた。1585年より、自身の領土になった駿府に居城を持つべく、現在の二の丸以内に駿府城の築城を開始。しかしすぐに豊臣秀吉により、関東に国替えとなってしまう。 その後、湿地だらけだった江戸を生まれ変わらせ、江戸幕府を開き、家督を秀忠に譲って、自身は大御所政治の拠点として駿府に戻ることになる。 以降は、三の丸部分まで拡張し、町割りや安倍川の治水事業などを行い、静岡市の市街地の原型を造ることに。大御所政治の拠点となった駿府も、駿府は江戸を凌ぐ政治・経済・文化の中心としてその黄金時代を迎えることとなる。 住んでいる方にとって、駿府の輝きはいまでも誇りとなっている。大御所・徳川家康が築いた文化や城の威厳をもう一度、見える形で復元したいとさまざまな取組みを行っている静岡。ここは江戸に次ぐ、徳川家康のお膝元の街であるという想いが人を通して伝わる。 幼少期に両親と別れ、織田家の人質・今川家人質・三方ヶ原の戦い・関東へのくら替え。これらの苦難を乗り越えて糧にしてきた徳川家康。そして、100年以上の混乱の時代、戦国時代を終わらせて平和な世の中をつくった。その江戸時代は300年以上続き、その映画は戦国時代よりも長く続いた。徳川家康は今でも、切立った山の奥に溶け込む久能山東照宮から平和を見ているのではないだろうか。

information 家康公の愛した駿府の街。その文化は現世へとつながっている。information 家康公の愛した駿府の街。その文化は現世へとつながっている。

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